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衣笠 (重巡洋艦)

衣笠(きぬがさ/きぬかさ)は、日本海軍の重巡洋艦(一等巡洋艦) 。青葉型重巡洋艦(青葉型一等巡洋艦)の2番艦。衣笠の艦名は、神奈川県の衣笠山及び衣笠城に因んで名付けられた。衣笠竣工直前の1927年(昭和2年)8月1日、田村重彦(衣笠)艤装員長/初代艦長が軍務局長に対し「艦名は横須賀の衣笠山で良いのか」と問い合わせたところ、「御考察ノ通リ」という返答があった。だが東京水交社編著『日本海軍艦船名考』(昭和3年発行)に「徳島県(阿波国)の麻植郡・美馬郡にまたがる高越山(通称、阿波富士、衣笠山)に由来とする」との記載がある。阿波国衣笠山由来という説は当時から広まっていたようである。また艦船研究家(海軍技術少佐)福井静夫は著書の中で「古鷹型四隻の艦名」という項目を設け、それぞれの由来を解説している。本艦(衣笠)については高越山(阿波富士)の別名由来と断定し、京都龍安寺傍の衣笠山由来説や、横須賀の衣笠城址由来説を否定。「徳島県の衣笠山をえらんだうらには、多少でも、横須賀にも衣笠の地名があることの奇縁が考慮されたのかもしれない」としている。艦内神社は京都府の平野神社と、神奈川県横須賀市三浦半島の走水神社。衣笠竣工後の1927年(昭和3年)1月12日、衣笠副長は平野神社、走水神社、衣笠神社に奉納額用と絵葉書用の艦写真を送付しようとしている。衣笠が建造されるまでにはワシントン会議およびワシントン海軍軍縮条約にともなう曲折があった。当時の日本海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷)。1922年(大正11年)3月中旬、二等巡洋艦(川内型軽巡洋艦)加古(佐世保海軍工廠)の建造が中止され、約半年後の10月9日、『加古』を一等巡洋艦として川崎造船所で建造する事が正式に決まる。これをもって『加古』は二等巡洋艦から一等巡洋艦に艦種変更。一等巡洋艦の建造艦名は1番艦衣笠、2番艦古鷹となることが8月11日(衣笠・古鷹命名日)の段階で通達されていたため、3隻(衣笠、古鷹、加古)は10月9日附で一等巡洋艦に類別。だが、『加古』の艦名流用により1番艦の艦名は加古と決まり、『衣笠』の艦名は一等巡洋艦3番艦以降へ先送りされた。この変更により『衣笠』はどの造船所で建造するかも『未定』となってしまった。加古型1番艦加古は神戸川崎造船所で1924年(大正11年)11月7日に起工。加古型2番艦古鷹は三菱長崎造船所で同年12月5日起工。ところが、加古の竣工が遅れたことでネームシップは古鷹になり、加古型ではなく古鷹型一等巡洋艦(古鷹型重巡洋艦)が海軍の正式な類別となった。1923年(大正12年)9月18日、加古・衣笠・古鷹に続く4隻目の一等巡洋艦に青葉の艦名が与えられた。同日附で衣笠を川崎重工業神戸造船所で建造する事が正式に決まった。軍艦衣笠は同造船所で1924年(大正13年)1月23日に起工。1926年(大正15年)10月24日、皇族軍人伏見宮博恭王臨席のもと、本艦は進水。1927年(昭和2年)2月1日、田村重彦大佐(前年まで長良型軽巡洋艦2番艦五十鈴艦長)は衣笠艤装員長に任命される。2月4日、神戸長崎造船所に艤装員事務所を開設する。衣笠は9月30日に竣工。田村大佐も衣笠艦長(初代)となった。艤装員事務所も撤去される。佐世保鎮守府所属。姉妹艦青葉と比べて起工は衣笠の方がはやかったが、進水(衣笠10月24日/青葉9月25日)・竣工(衣笠9月30日/青葉9月20日)ともにやや遅れている。このためネームシップは青葉になった。加古級(古鷹型)20cm単装砲塔六門に対し、青葉型2隻(青葉、衣笠)は最初から20cm連装砲塔3基六門という配置となっており、本型と加古級の外見上相違点となった。のちに古鷹型2隻(加古、古鷹)も近代化改装の際に20.3cm連装砲塔3基六門へ換装している。1927年(昭和2年)8月24日に発生した美保関事件により、第五戦隊(第1小隊《加古、古鷹》、第2小隊《神通、那珂》)のうち川内型軽巡洋艦2隻(神通、那珂)が大破、同隊から除籍される。竣工後の青葉型2隻(青葉、衣笠)は、10月30日の大演習観艦式(横浜沖)に参加、当時の衣笠は航空機射出機を装備していなかった。12月1日附で青葉型2隻(青葉、衣笠)は第五戦隊に編入され、同隊は一等巡洋艦4隻(衣笠、青葉、加古、古鷹)となった。同日、第五戦隊旗艦は加古から衣笠に変更された。これより約2年間、衣笠は第五戦隊旗艦となる。1928年(昭和3年)3月10日、田村(衣笠艦長)は病気のため退任。岩村兼言大佐(金剛型戦艦4番艦霧島艦長)が衣笠2代目艦長となる。同年同時期には航空機用カタパルトを装備、同装備を備えた初の日本海軍艦艇となった。12月4日、第五戦隊(衣笠、青葉、加古、古鷹)は御大礼特別観艦式(横浜沖、御召艦榛名)に参加。12月10日、岩村(衣笠艦長)は伊勢型戦艦1番艦伊勢艦長へ転任。後任の衣笠艦長は、北川清大佐(空母鳳翔艦長)となる。1929年(昭和4年)5月28日、昭和天皇は関西方面行幸にあたり横須賀で妙高型重巡洋艦2番艦那智に乗艦、在泊の2隻(衣笠、加古)は満艦飾で奉迎した。7月11日午前10時21分、演習に従事していた衣笠は浮上してきた伊号第五十五号潜水艦と衝突、艦首艦底附近に損傷を受けた。11月1日、北川(衣笠艦長)は空母赤城艦長へ転任。後任の衣笠艦長は、大田垣富三郎大佐(当事、長良型軽巡4番艦由良艦長)となる。1930年(昭和5年)12月1日、衣笠は予備艦となる。同日附で大田垣(衣笠艦長)は妙高型重巡洋艦3番艦足柄艦長に補職され退艦。染河啓三大佐(大湊防備隊司令)が衣笠艦長となった。1931年(昭和6年)3月1日、渋谷荘司大佐(舞鶴防備隊司令)は衣笠艦長に任命される。同年11月14日、衣笠艦長は渋谷大佐から、潜水母艦迅鯨艦長大崎義雄大佐に交代する。1932年(昭和7年)9月6日、出雲型装甲巡洋艦2番艦磐手砲術長沢正雄少佐(後日、衣笠沈没時艦長)は、衣笠砲術長および青葉砲術長の兼務を命じられる。11月1日、田中菊松少佐が青葉砲術長に補職され、沢(衣笠砲術長)は兼務を解かれた。12月1日、丹下薫二大佐(金剛型戦艦2番艦比叡艦長)は衣笠艦長に任命される。同日附で第五戦隊に編入。1933年(昭和8年)5月20日、第六戦隊に編入、同戦隊は重巡3隻(青葉、衣笠、加古)となる。10月20日、沢少佐(衣笠砲術長)は長門型戦艦2番艦陸奥砲術長に補職された(後任の衣笠砲術長は谷本計三少佐)。11月15日、丹下(衣笠艦長)は春日型装甲巡洋艦1番艦春日艦長(海軍大学校教官兼務)に補職される。後任の衣笠艦長は坂本伊久太大佐。1934年(昭和9年)11月15日、衣笠艦長は球磨型軽巡洋艦3番艦北上艦長武田盛治大佐に交代した。1935年(昭和10年)11月15日、武田(衣笠艦長)は最上型重巡洋艦2番艦三隈艦長へと転任。後任の衣笠艦長は畠山耕一郎大佐(新高型防護巡洋艦2番艦対馬艦長)となる。同日附で第七戦隊に編入。1936年(昭和11年)当時は古賀峯一少将を司令官として第七戦隊(青葉《旗艦》、衣笠、古鷹)を編制していた。8月14日午前4時、青葉と衣笠は夜間航行中に衝突事故を起こした。訓練終了後、青葉―衣笠―古鷹の単縦陣は速度を6ノットに減速することになったが、衣笠側は青葉の信号を見落とし9ノットで直進、誰一人気付かないまま青葉艦尾に衝突した。両艦とも深刻な損傷はなかったが、衣笠は応急修理を実施したのちも盛大な艦首波を出すようになったという。この後、衣笠以下各艦は10月29日神戸沖の観艦式(御召艦比叡、供奉艦《鳥海、愛宕、足柄》)に参加した。12月1日、衣笠は予備艦となった。1937年(昭和12年)4月1日、松永次郎大佐(大湊要港部参謀長)は衣笠艦長に任命される。8月15日、警備艦に指定され、9月1日より再び予備艦。同月から近代化改修が始められる。12月1日、松永大佐は衣笠艦長の職務を解かれる。後任の衣笠艦長は、松山光治大佐(軽巡北上艦長)となった。1938年(昭和13年)6月3日、松山(衣笠艦長)は高雄型重巡洋艦1番艦高雄艦長へ転任。姉妹艦である青葉艦長広瀬末人大佐が青葉艦長と衣笠艦長を兼務することになる。6月15日、広瀬艦長は衣笠艦長の職務を解かれ、後任には球磨型軽巡1番艦球磨艦長佐藤勉大佐が任命された。1939年(昭和14年)10月10日、佐藤(衣笠艦長)は妙高型重巡2番艦那智艦長も兼務する。11月15日、佐藤(衣笠・那智艦長)は扶桑型戦艦1番艦扶桑艦長へ転任。後任の衣笠艦長は難波祐之大佐(川内型軽巡洋艦2番艦神通艦長)となる。1940年(昭和15年)1月10日、難波大佐は衣笠艦長と室戸型給炭艦2番艦野島特務艦長の兼務を命じられる。2月5日、沢正雄大佐(元衣笠砲術長)が野島特務艦長に補職され、難波(衣笠艦長)は兼務を解かれた。9月25日、難波(衣笠艦長)は第13砲艦隊司令へ転任し、後任の衣笠艦長は水路部総務課長清田孝彦大佐になる。本艦の改装は10月に完了した。11月15日、第六戦隊司令官は田結譲少将から牧田覚三郎少将に交代した。1941年(昭和16年)3月1日、衣笠は第一艦隊所属の第六戦隊に編入。8月20日、清田(衣笠艦長)は妙高型重巡2番艦那智艦長へ転任。衣笠艦長は天龍型軽巡洋艦2番艦龍田艦長沢正雄大佐(昭和7年から昭和8年時の衣笠砲術長)に交代。衣笠は沢艦長のもとで太平洋戦争を迎えた。9月15日、第六戦隊司令官は牧田少将から第二水雷戦隊司令官五藤存知少将に交代(後任の第二水雷戦隊司令官は田中頼三少将)。五藤少将は第六戦隊旗艦を加古から青葉に変更、各艦の隊番号も変更された。同時期、高橋雄次大佐(前職、軽巡天龍艦長)も加古艦長として着任している。太平洋戦争開戦時、青葉型重巡2隻(青葉、衣笠)は古鷹型重巡洋艦2隻(古鷹、加古)と共に、ひきつづき第六戦隊司令官五藤存知少将の指揮下の第六戦隊(第1小隊《1番艦:青葉、2番艦:加古》、第2小隊《3番艦:衣笠、4番艦:古鷹》)を編制していた。第六戦隊は南洋部隊(指揮官井上成美中将/第四艦隊司令長官)に所属して、第四艦隊旗艦鹿島の指揮下にあった。太平洋戦争開戦後、グアム島攻略、ウェーク島攻略に参加。その後も第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将:天龍、龍田)や第六水雷戦隊(軽巡《夕張》、第29駆逐隊、第30駆逐隊)等と共にラバウル~ソロモン諸島を行動した。1942年(昭和17年)5月上旬、衣笠以下第六戦隊はパプアニューギニアの首都ポートモレスビー攻略を企図するポートモレスビー作戦の一環としてMO攻略部隊(MO主隊)に所属し、珊瑚海海戦に参加する。第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)と駆逐艦漣(第7駆逐隊所属)は空母祥鳳(南洋部隊所属)の護衛にあたるが、アメリカ軍機動部隊艦載機の集中攻撃により祥鳳は沈没した。第六戦隊はアメリカ軍の第二次空襲を避けるため祥鳳沈没現場を離れ、のちに漣が反転して祥鳳生存者203名を救助した。その後、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊に編入される。第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)は六戦隊第1小隊(青葉、加古)と分離し、第五航空戦隊(司令官原忠一少将)の翔鶴型航空母艦2隻(瑞鶴、翔鶴)、第五戦隊(MO機動部隊指揮官兼第五戦隊司令官高木武雄少将)の妙高型重巡洋艦2隻(妙高、羽黒)、護衛駆逐艦(第7駆逐隊《曙、潮》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》)との合流地点へ向かった。5月8日朝、第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊に合流。同日の戦闘でMO機動部隊攻撃隊は空母レキシントンを撃沈しヨークタウンに損傷を与えた。一方で翔鶴が大破、護衛部隊(古鷹、衣笠、夕暮、潮)は戦場を離脱する翔鶴を一時的に護衛した。5月12日になり第1小隊(青葉、加古)と合流。17日、トラック泊地帰投。6月上旬、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)は日本本土に戻った。同月上旬におけるミッドウェー海戦の敗北後、日本海軍はソロモン諸島防備強化の方針を打ち出す。整備・休養を終えた第六戦隊は第十八戦隊(天龍、龍田)等と共にそれぞれ南方へ進出した。なお、第十八戦隊司令官は6月11日附で松山光治少将(1937年12月~1938年6月まで衣笠艦長)に交代している。同年8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いがはじまった。8月8日から8月9日にかけて、衣笠は第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、参謀神重徳大佐。旗艦鳥海)の指揮下、重巡5隻(鳥海、青葉、加古、衣笠、古鷹)・軽巡2隻(天龍、夕張)・駆逐艦1隻(夕凪)という戦力で第一次ソロモン海戦に参加、勝利に貢献した。だが、帰途において第六戦隊僚艦加古がアメリカの潜水艦S-44の雷撃で沈没した。大勝利に湧いていた第六戦隊の空気は、加古沈没により一気に沈痛なものに変わったという。加古生存者650名は翌日になって駆逐艦「卯月」(第30駆逐隊所属)と舟艇3隻に救助され、ニューアイルランド島のカビエンに戻ったのち六戦隊姉妹艦に収容されている。さらに特務艦石廊に乗船し、ラバウルへ向かった。8月19日、第六戦隊はサンタイサベル島レカタ湾に進出して臨時水上機基地を設置したが、20日のアメリカ軍機動部隊出現によって撤収した。翌日、第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠)は、ラバウルから出撃してきた重巡鳥海および駆逐艦磯風(第17駆逐隊所属)と合流する。その日、陸軍一木支隊はイル川渡河戦で全滅した。六戦隊第1小隊(青葉、古鷹)分離後の3隻(鳥海、衣笠、磯風)はショートランド泊地に到着。磯風はガダルカナル島砲撃のため残置され、3隻(鳥海、衣笠、夕凪)が同泊地を出港して増援部隊輸送船団(第二水雷戦隊護衛)支援のために東進した。しかし8月24日、第二次ソロモン海戦により空母龍驤が撃沈された。同日夜、鳥海搭載水偵3(内1機は由良艦載機)、青葉・古鷹・衣笠搭載水偵各1機が発進してガ島飛行場を空襲した。8月25日午前1時45分、外南洋部隊(鳥海、青葉、古鷹、衣笠、夕凪)は輸送船団(第二水雷戦隊)を視界内に認める。日中、アメリカ軍機の空襲により第二水雷戦隊司令官田中頼三少将座乗の二水戦旗艦神通が中破、2隻(駆逐艦睦月、輸送船金龍丸)が沈没、輸送船団の突入も中止されるに至った。神通は駆逐艦涼風に護衛されてトラック泊地へ回航され、増援部隊指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官は駆逐艦陽炎(第15駆逐隊所属)に将旗を掲げたのち、第24駆逐隊(海風)と共にショートランド泊地へ移動した。26日15時、六戦隊1小隊(青葉、古鷹)と夕凪を分離後の重巡2隻(鳥海、衣笠)はラバウルに帰投、輸送船団(駆逐艦《磯風、江風》、哨戒艇34・35、輸送船《ぼすとん丸、大福丸》)は夜になりショートランド泊地に到着した。外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一中将)は、田中(増援部隊指揮官)が旗艦設備のない駆逐艦から輸送作戦全般の指揮をとるのは無理と判断。27日附で衣笠を外南洋部隊増援部隊に編入し、ラバウルからショートランド泊地へ移動させる。8月28日、同地にて田中司令官は陽炎から衣笠に移乗すると将旗を掲げ、本艦は増援部隊(第二水雷戦隊)旗艦となった。8月29日早朝、田中司令官はアメリカ軍機動部隊空襲を畏れて衣笠に乗りブーゲンビル島北西海面へ退避、夕方になってショートランドへ戻った。この時、田中司令官は第八艦隊・第十一航空艦隊に対し、増援部隊輸送基地のショートランド退避およびラバウル後退・海軍艦艇による輸送作戦の中止(陸軍側主張による大発動艇輸送への賛同)を意見具申した。これはショートランドを基地として軽快艦艇によるガ島突入や輸送を企図する第八艦隊とは正反対の方針だった。ついに外南洋部隊(第八艦隊)は田中の更迭を決断。増援部隊指揮官は第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将(旗艦川内)に交代し、衣笠も外南洋部隊支援隊に復帰した。8月31日、田中少将は増援部隊の指揮を橋本(三水戦司令官)に引き継ぎ、駆逐艦夕霧に移乗してトラック泊地へ向かった。これ以後、ガダルカナル島への輸送作戦(鼠輸送・東京急行)は第三水雷戦隊が担当することになった。9月12日朝、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍の攻撃を支援するため、外南洋部隊各隊はショートランドを出撃した。主隊(鳥海、青葉、衣笠、古鷹、天霧)、奇襲隊(川内、敷波、吹雪、涼風)、他に駆逐艦部隊(漣、潮、陽炎、白雪、浦波、夕立、叢雲)はガ島ルンガ泊地へ向かったが、陸軍飛行場占領失敗の報告があり、後退した。翌日にも鼠輸送や小規模な陸上砲撃を実施したが米艦艇は出現せず、各隊・各艦は9月15日-16日にかけてショートランドやラバウルへ戻った。10月11日、第六戦隊(第1小隊《青葉、古鷹》、第2小隊《衣笠》)・第11駆逐隊第2小隊(吹雪、初雪)はヘンダーソン飛行場基地砲撃を実施すべくガダルカナル島へ向かった。だがアメリカ軍はノーマン・スコット少将率いる重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻の艦隊を輸送船団から引き抜き、アイアンボトム・サウンドに派遣して待ち構えていた。本夜戦(サボ島沖海戦/エスペランス岬沖海戦)で日本海軍は米艦隊に対し失態を演じた。まず、敵艦隊はいないと判断して油断していた。つづいて、サボ島方面に出現した米艦隊を、先行した日進輸送隊(水上機母艦《日進、千歳》、駆逐艦《秋月、朝雲、夏雲、白雪、叢雲、綾波》)と誤認して、レーダーを装備する米艦隊から先制攻撃を受けたのである。夜間水上戦闘により第六戦隊旗艦(青葉)が大破して五藤司令官が戦死、夜戦で2隻(重巡古鷹、駆逐艦吹雪)が沈没。日中の空襲で駆逐艦2隻(夏雲、叢雲)を喪失している。衣笠と初雪は米艦隊に損害を与え(駆逐艦1沈没、軽巡1大破・駆逐艦1大破、重巡1小破)、自らは軽微な損害で夜戦を切り抜けた。この後、初雪は古鷹乗組員を救助して帰投した。衣笠もアメリカ軍機5機の空襲を受けたが被害はなく、午前9時頃ショートランド泊地に戻った。連合艦隊参謀長宇垣纏少将は陣中日誌戦藻録に『当時の当時の戦況を仄聞するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく、夜間に於て物を見たら敵と思へと考へなく、一、二番艦集中攻撃を蒙るに至れるもの、殆ど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。』と記述している。青葉は修理のため内地へ回航された。10月13日深夜、第三戦隊司令官栗田健男中将指揮下の戦艦2隻(金剛、榛名)および第二水雷戦隊(旗艦五十鈴)によるヘンダーソン基地艦砲射撃の際には、川内・由良所属水偵が弾着観測を、古鷹・衣笠所属水偵が照明弾投下という役目を帯びて飛行場砲撃に参加した。同日夜、外南洋部隊指揮官(三川中将)は第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦「秋月)および高速輸送船6隻のガ島揚陸作戦を支援するため、重巡洋艦2隻(鳥海、衣笠)と駆逐艦2隻(望月、天霧)をひきいてショートランド泊地を出撃する。衣笠はサボ島沖海戦から戻ったばかりだった。10月14日-15日にかけて重巡2隻(鳥海、衣笠)は艦砲射撃(20cm砲弾752発)を実施。だが第三戦隊と第八艦隊の艦砲射撃でもヘンダーソン飛行場の戦力は失われておらず(新滑走路があったため)、日中の空襲により輸送船3隻を喪失、揚陸した物資もほとんど焼き払われてしまった。10月17日朝、外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、天霧、望月)はショートランド泊地を出撃、東京急行としてガ島輸送作戦を実施する増援部隊(軽巡戦隊《川内、由良、龍田》、水雷戦隊《秋月、朝雲、白雪、暁、雷、村雨、夕立、春雨、五月雨、有明、白露、時雨》)を支援して行動した。サボ島附近で天霧、望月は主隊と分離、警戒隊の駆逐艦2隻(村雨、時雨)と連続で飛行場砲撃を実施している。軽巡由良に潜水艦が発射した不発魚雷1本が命中したのみで、各隊・各艦に大きな被害はなかった。10月24日-25日のガ島日本陸軍飛行場総攻撃で、外南洋部隊主隊・増援部隊はガ島近海を行動して支援にあたる。総攻撃は失敗し、アメリカ軍機の波状攻撃で由良が沈没、駆逐艦秋月(第四水雷戦隊旗艦)が中破して戦線を離脱した(南太平洋海戦)。各隊は26日から28日までにショートランド泊地へもどった。11月1日、外南洋増援部隊は戦力の再編を実施。第三水雷戦隊司令官(増援部隊指揮官)は軽巡川内から衣笠に移乗して将旗を掲げ、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を指揮する。第一攻撃隊、第四水雷戦隊司令官指揮下の甲増援隊、第19駆逐隊司令指揮下の乙増援隊は同日深夜にショートランド泊地を出撃、11月2日深夜にガ島揚陸を実施するが、悪天候により甲増援部隊は一部物資を揚陸できなかった。各艦に主な損害はなかった。衣笠水偵は11月2日夜のガ島偵察でアメリカ軍艦爆3機と交戦、行方不明になった。11月4日夕方、次の輸送作戦に備えて橋本三水戦司令官は将旗を衣笠から駆逐艦「浦波」に移した。今度の輸送作戦は成功し、各隊は11月6日朝にショートランド泊地へ帰投。これをもって増援部隊指揮官は三水戦司令官橋本信太郎少将から二水戦司令官田中頼三少将に交代し、橋本少将は旗艦川内(浦波より復帰)および第三水雷戦隊各艦をひきいてトラック泊地へ戻っていった。11月10日、第六戦隊は解隊された。健在だった衣笠は第八艦隊直属、修理を要する「青葉」は呉鎮守府部隊に編入という配備が決まる。同日附で2隻(重巡《古鷹》、空母《龍驤》)は軍艦籍より除籍された。この前後、山本五十六連合艦隊司令長官は重巡洋艦によるガ島飛行場実施を下令しており、外南洋部隊は新たに配属された第七戦隊(鈴谷、摩耶)にこの任務を与えた。ショートランド進出後の重巡2隻(鈴谷、摩耶)は2隻(衣笠、鳥海)から零式弾を受け取ると対地砲撃訓練を実施、ガ島突入に備えた。11月12日夜、飛行場砲撃に向かった挺身攻撃隊(第十一戦隊、第十戦隊、第四水雷戦隊)と米艦隊との間に夜間水上戦闘が勃発、夜戦と昼間の空襲で3隻(戦艦《比叡》、駆逐艦《暁、夕立》)が沈没して飛行場砲撃は中止された(第三次ソロモン海戦第一夜戦)。11月13日未明、アメリカ軍大型機の空襲により出撃準備中の朝潮型駆逐艦3番艦満潮(第8駆逐隊)が大破した。このため主隊所属の朝潮型1番艦朝潮(第8駆逐隊)が、飛行場砲撃時に支援隊を護衛することになった。午前3時-4時30分、外南洋部隊主隊(重巡《鳥海、衣笠》、軽巡洋艦《五十鈴》)と外南洋部隊支援隊(指揮官西村祥治第七戦隊司令官:旗艦鈴谷、重巡《鈴谷、摩耶》、軽巡《天龍》、第10駆逐隊《夕雲、巻雲、風雲》、第8駆逐隊《朝潮》)はショートランド泊地を出撃する。同日23時30分より七戦隊(鈴谷、摩耶)はヘンダーソン飛行場砲撃を実施して20cm砲弾合計989発を発射、十数機を破壊したが飛行場の作戦能力に影響はなかった。11月14日午前5時50分、飛行場砲撃を終えた支援隊は主隊と合流する。合流後の陣形は、駆逐艦4隻(夕雲、巻雲、風雲、朝潮)が横一列に並んで艦隊前方を進み、左側に鳥海―衣笠―五十鈴・右側に鈴谷―摩耶―天龍の並列単縦陣を形成していた。だが戦場離脱中にニュージョージア諸島南方海面で空母エンタープライズ艦載機と、ヘンダーソン基地から飛来した急降下爆撃機SBDドーントレスおよび雷撃機TBFアベンジャーの攻撃を受けた。最初の攻撃はヘンダーソン基地から発進したワイルドキャット7機、ドーントレス7機、アベンジャー6機によるものだった。彼らは衣笠の右舷に魚雷3本、左舷に魚雷1本命中を記録した。続いて帰路についていたドーントレス2機が右舷に傾き油をひいた衣笠を発見すると急降下爆撃をおこない、前部甲板右舷・艦中央に500ポンド爆弾を命中させたと主張する。衣笠は最初の攻撃で艦橋前部(右舷一番高角砲附近)に直撃弾を受け、また至近弾で前部揮発油庫が炎上し、発電機室浸水という被害も受けた。艦橋にいた艦長以下幹部達は最初の被弾時に戦死したとみられる。水雷長田中弘国大尉が指揮を継承。注水により傾斜を回復し、火災も鎮火したが第二次空襲で機関および舵が故障。魚雷も命中し航行不能となる被害を受けた。続いてSBD艦爆2機が到着した。アメリカ軍の記録によれば、日本艦隊の隊列は乱れていた。炎上した衣笠の周囲に2隻の駆逐艦がおり、主力部隊は北西に向かい、軽巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が衣笠の15km西、重巡洋艦1隻と駆逐艦1隻が衣笠の20km南西を西に向かっていたという。1機は重巡洋艦(鳥海)を爆撃したが至近弾となった。別の1機は行方不明となり、僚機は巡洋艦から激しい煙が上がるのを目撃。この時、摩耶には被弾したSBD爆撃機が体当たりし、小火災が発生している。9時22分、衣笠は地点で沈没した。もしくは。アメリカ軍記録。艦長の沢正雄大佐、副長宮崎房雄中佐を始めとする511名(50名余とも)が戦死、生存者は駆逐艦2隻(夕雲、巻雲)に救助された。この時、重巡や駆逐艦部隊も魚雷を投棄したため、外南洋部隊主隊は前進部隊(愛宕、高雄、霧島)の夜戦に協力できなかったと報告している。衣笠の沈没後も外南洋部隊は空襲に曝された。エンタープライズ隊SBD16機が戦場に到着。攻撃隊指揮官は付近に日本空母がいる可能性を考慮して周囲を捜索したが発見できず、全機が目の前の巡洋艦部隊(外南洋部隊)を攻撃した。2機が軽巡洋艦に爆弾を命中させ、左舷に傾いたと主張する。だが五十鈴直撃弾落伍以外の決定的損害は受けず、一連の空襲で3隻(鳥海、摩耶、五十鈴)が大小の損害を受けた。エンタープライズ隊は転覆した衣笠の上空を飛びつつガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に着陸した。その後、第二水雷戦隊各艦に護衛されガダルカナル島へ向かっていた輸送船団も空襲で大打撃を受け、飛行場砲撃に向かった前進部隊も米艦隊(戦艦2、駆逐艦4)と交戦して2隻(戦艦《霧島》、駆逐艦《綾波》)を喪失した。ガ島へ辿りついた輸送船も全隻破壊され、揚陸した物資もほとんど炎上、第三次ソロモン海戦は日本海軍の完全な敗北(輸送作戦失敗)で終わった。12月15日、第三次ソロモン海戦で沈没した駆逐艦3隻(夕立、暁、綾波)等と共に衣笠の除籍が通達された。衣笠は帝国軍艦籍、一等巡洋艦青葉型のそれぞれから削除された。12月20日、第六戦隊も呉鎮守府籍より削除された。第六戦隊に所属した重巡4隻(古鷹型2隻・青葉型2隻)のうち、所属部隊を幾度も変わった青葉のみ大破着底状態で終戦を迎えた。

出典:wikipedia

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