1974 FIFAワールドカップ()は、1974年6月13日から7月7日にかけて、西ドイツ(現・ドイツ)で開催された第10回目のFIFAワールドカップである。西ドイツが決勝でオランダを2対1で下し、スイス大会以来2度目の優勝を遂げる。出場選手は1974 FIFAワールドカップ参加チームを参照。この第10回記念大会で初めて、2014年現在でも使われているFIFAワールドカップトロフィーが優勝国に手渡された。それ以前に使われていたジュールリメ杯は、1970年大会でブラジルが3回目の優勝を遂げたため、ブラジルにて永久に保管されることとなっており、新しいトロフィーが今後の大会のために準備された。また、この大会から開幕戦は開催国ではなく、前回優勝国が出場することになった。これは2002年の日韓大会まで続いた。ドイツで2回目の開催となった2006年からは、前回優勝国の予選免除特権が無くなったため、再び開催国が開幕戦に出場することとなった。大会の方式が1970年大会のものから変更され、初めて「2次リーグ制」が取り入れられた。16チームが地区予選を突破して招待され、1次リーグは4チームずつ4つのグループに分けられた。各グループの1位と2位チームが2次リーグに進出し、4チームずつ2グループに分けられた。各グループの1位同士が決勝戦を行い、各グループの2位同士が3位決定戦を行った。この方式が実施されたのは今大会と次回アルゼンチン大会のみである。1次リーグでは、ハンブルクの試合会場で東ドイツ対西ドイツ戦が行われた。両国が同組に入ることが決まった瞬間、組合せ抽選会場には大きなどよめきが起こったという。東西ドイツが対戦した史上唯一の国際Aマッチであり、大方の予想を覆してユルゲン・シュパールヴァッサーのシュートにより東ドイツが1対0で勝利した。前回優勝国のブラジルは、ペレ、トスタン、ジェルソンが代表引退した影響でチーム力が落ち、1次リーグも何とか通過する状態であった。2次リーグでもオランダに0対2で完敗し、3位決定戦でもポーランドに敗れ4位に終わったが、2次リーグでの東ドイツ戦でリベリーノがFKを決めた場面が唯一の見せ場だった。2年前のミュンヘン・オリンピックで金メダルを獲得した実績を持ち、ヨーロッパ地区予選でイングランドに競り勝って出場したポーランドも話題となった。グジェゴシ・ラトーが通算7得点を挙げ大会得点王となったが、彼以外にもロベルト・ガドハ、アンジェイ・シャルマッフ、カジミエシュ・デイナらを揃えてスピード溢れる攻撃サッカーを披露、2次リーグ最終戦で西ドイツに敗れたが、3位決定戦でブラジルを下して3位の座を確保した。ジャンニ・リベラ、サンドロ・マッツォーラらを擁して優勝候補にも挙げられていたイタリアだったが、名GKディノ・ゾフの持つ連続無失点記録をよりによってハイチに止められたのがケチの付き始めとなった。ハイチ戦は3対1で勝利したものの、続くアルゼンチン戦を1対1の引分け、2次リーグ進出を懸けたポーランド戦を1対2で落すと、アルゼンチンに得失点差で1点及ばず、1次リーグ敗退に終わった。この大会は既存のサッカー戦術に変革をもたらした大会であった。準優勝に終わったものの、今大会の台風の目となったオランダは、“フライング・ダッチマン”ヨハン・クライフを中心にヨハン・ニースケンス、ルート・クロル、ロブ・レンセンブリンク、ヨニー・レップ、アリー・ハーン、ウィレム・ファン・ハネヘム、ビム・ヤンセンらが従来のポジションに捉われず目まぐるしく動き回る全員攻撃・全員防御の「トータルフットボール」を展開し、サッカー界にセンセーションを巻き起こした。一方、優勝した西ドイツもベッケンバウアーを中心としたリベロ・システムを披露した。オランダのトータルフットボールが全世界の注目を集めたため、それほど目立たなかったもののディフェンダーが戦術的に攻め上がるというシステムは画期的であった。西ドイツは円熟の境地を迎えた“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーを始めとして“爆撃機”の異名を誇ったFWゲルト・ミュラー、中盤で試合を組み立てた“左足の芸術家”ヴォルフガング・オヴェラート、クライフを密着マークし完封したDFベルティ・フォクツ、決勝で同点ゴールとなるPKを事も無げに決めた若き左サイドバックパウル・ブライトナー、GKゼップ・マイヤーといった今日でも語り継がれるスター選手を揃えていた。ミュラーは決勝戦で決勝点を挙げ、西ドイツ代表の優勝に貢献した。※ブラジルが得失点差でスコットランドを上回り2次リーグ進出※アルゼンチンが得失点差でイタリアを上回り2次リーグ進出
出典:wikipedia
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