モーリタニア・イスラム共和国(モーリタニア・イスラムきょうわこく、)、通称モーリタニアは、アフリカ北西部に位置する共和制国家。北西にモロッコ(サハラ・アラブ民主共和国)、北東にアルジェリア、東と南にマリ、南西にセネガルと国境を接し、西は大西洋に面する。大西洋沖の西にはカーボベルデが存在する。首都はヌアクショット。2015年の人口は約406.8万人。アフリカ世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟に加盟している。アラブ・マグリブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれる。正式名称はアラビア語で、。フランス語表記は、。公式の英語表記は、。通称、。日本語の表記は、モーリタニア・イスラーム共和国。通称、モーリタニア。国名はアフリカの地中海岸に位置したベルベル人の古代国家マウレータニア(現在のアルジェリアとモロッコ)からとられている。8世紀(4世紀との説もある)ころから、国土の南東部に残されたを首都として、ガーナ王国が繁栄した。ガーナ王国は、セネガル川上流のバンブク周辺から産出される金とサハラ砂漠の岩塩から採取される塩、北方からの銅製品や衣服、装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。このようなサハラ越えの隊商交易の利を押さえようとしたムラービト朝に1077年に滅ぼされるまでその繁栄は続いた。世界遺産にもなっているシンゲッティ(シンキート)、ワーダーン、ワッラータ、ティシートの隊商都市は、ガーナ王国と並行して発展し、ガーナが滅亡した11~12世紀にも繁栄を続けた。シンゲッティは、モーリタニア北西部に位置し、古くからシンゲッティ王国の首都であったが、12世紀頃になるとメッカの巡礼地の出発点となり、イスラム学者、学生、修道士などが集まる文化都市となった。シンゲッティ北東約100kmに位置するワーダーンは、マリ帝国で産出する金や北西約200kmに位置するイジルの岩塩から採取される塩の取り引きのための中継地にあたるため、その交易の利で12世紀ころから数百年にわたって繁栄した。内陸部のティシートもムラービト朝やムワッヒド朝の外周都市としてやはりイジルの岩塩によって繁栄した。16世紀にオウド=ベラ族に要塞都市に造り替えられた。その後、交易路が変わったために衰退した。ガーナ王国滅亡後、500年以上にわたってベルベル人の支配が続き、黒人からなる地元勢力が抵抗したが、打倒にはいたらなかった。最後の大規模な抵抗は1644年から1674年にわたって行われた戦争であるが、これも地元勢力の敗北に終わった。20世紀初めにフランスによって植民地化され、フランス領西アフリカの一部となった。1958年にフランス共同体が発足すると、共同体内の一共和国となった。「アフリカの年」こと1960年11月28日に、アフリカ諸国の独立が進む中でに独立を達成した。1960年の独立の翌1961年に憲法が制定された。フランス第五共和政と同様に、大統領の権限が強いものであった。初代大統領にはモーリタニア人民党のモフタール・ウルド・ダッダが就任した。植民地時代の行政区画がそのまま国土の範囲に継承されたため、独立後の国民統合に課題を抱えている。1965年の憲法改正では一党独裁、社会主義政権の方針が規定された。ダッダ政権はモロッコと共に西サハラの領有権を主張し、1975年に南部を占領してポリサリオ戦線と対立した。しかし、ポリサリオ戦線との戦いによる負担は重く、和平を望んだ軍部のクーデターによって1978年7月にダッダは失脚した。翌1979年にポリサリオ戦線との和平協定が結ばれた。1984年にクーデターで政権を掌握したタヤ大統領は、1990年代初頭、1992年及び1997年の大統領選挙で勝利を収めた。しかしその後、クーデター未遂等が発生した。1989年にが勃発し、数万人に及ぶ両国国民が相互に両国国内から追放された。2004年にはが発生している。2005年8月にはタヤ大統領不在時に軍部が無血のクーデターにより政権を掌握した。その結果「正義と民主主義のための軍事評議会」が設置され、現在民主化プロセスを進展中。2006年6月25日には憲法改正国民投票が実施され、有効投票の約97%が改正を承認。政権交代の原則が公認される。11月から12月にかけて国民議会・地方議会、2007年1月に上院議会のそれぞれの議員選挙が行われた。2007年3月11日に大統領選挙第1回投票が行われ、3月25日に決選投票が行われた結果、スィディ・ムハンマド・ウルド・シェイク・アブダライ元水産相が新大統領に選出された。2008年8月6日、軍事クーデターが発生し、アブダライ大統領、ワクフ首相、内相が軍に拘束されていると報道された。また、クーデター実行部隊は同大統領らを拘束したムハンマド・ウルド・アブドゥルアズィーズ大統領警護隊長を議長とする「高等国家評議会」の樹立を宣言した。このクーデターについて、欧米各国、アフリカ連合、アラブ連盟は非難声明を出し、アブダッライ大統領を権力に復帰させるよう求めた。高等国家評議会は、2009年6月に民主化のための選挙を行うと表明。2008年12月には、拘束されていたアブダライ大統領をはじめとする旧政府要人が解放されたが、2009年1月には現政権支持派によるアブダライ批判デモが起こるなど、不安定な状態が続いている。2009年6月実施予定の大統領選に出馬するため、アブドゥルアズィーズは2009年4月に軍政トップを辞任した。大統領選は予定通り6月に実施され、アブドゥルアズィーズが当選した。外交面では非同盟を軸として穏健中立を貫くとともに、フランスを始めとする先進諸国との関係強化を進めている。アラブ・マグレブ連合(AMU)のメンバーとしてイスラム諸国との域内協力に積極姿勢を示す一方で、1999年10月にはイスラエルとの外交関係を樹立した。モーリタニアはアラブ系民族であるムーア人が支配民族に位置し、アラビア語を公用語とするアラブ系国家として、アラブ連盟加盟国である。アラブ諸国内ではモロッコ及びリビアと外交的に対立し、チュニジアおよびイラクと友好関係を保っている。しかしその一方で、親米姿勢を取り、イスラエルを承認し、1999年にはイスラエルと外交関係を樹立した。しかし2008年に始まったイスラエルによるガザ侵攻に反発し、2009年にイスラエルとの外交関係を断絶し、再び反イスラエルに転じている。スペインが旧スペイン領サハラを放棄すると、モロッコ同様に領土権を主張し、南部を占領した。しかしポリサリオ戦線の抵抗に遭い、1979年4月に和平協定を結んで領有権を放棄している。1989年に南隣のセネガルとの間でが勃発した。ベルベル人とアラブ人の混血である、イスラム教徒のムーア人(モール人)が社会の上層を占める。ムーア人と黒人が対立する構図は、独立後も続いている。独立後も奴隷制が続いていたが、1980年に公式には奴隷制が廃止された(公式には世界奴隷制消滅宣言)。ただし、その後も実態として虐待を伴う奴隷制は続き、若干の賃金が与えられているだけとの指摘もある。2003年には再び人身売買を禁止する法律が公布された。少女を強制的に肥満化させる風習があった。砂糖を加えたラクダの乳や雑穀の粥、クスクスなどを大量に飲み食いを強制され、飲み食いを拒否すれば万力でつま先をつぶされるなどの罰を受ける「ガバージュ()」と呼ばれる強制肥満化が伝統的に行われてきた。モーリタニア政府が2001年から行ってきた調査によると、少女時代に「ガバージュ」を受けた女性は5人に1人である。政府は独立以来ガバージュを撲滅するキャンペーンを続けてきた。国土の砂漠化が著しく、首都ヌアクショット周辺の住宅地も砂漠に飲み込まれ、放棄されている。モーリタニアは12の州と首都ヌアクショットに分かれている。主要な都市はヌアクショット(首都)、ヌアディブ、ロッソがある。アフリカ大陸の西側に位置するモーリタニアは、おおむね平坦で日本の約3倍の国土面積を持つ。全土がサハラ砂漠に位置するため、国土の90%以上が砂漠であり、中央部にリシャット構造と呼ばれる同心円状の特徴的な地形がある。南部のセネガル国境を成すセネガル川流域や点在するオアシスが僅かに乾燥を免れた地域となっている。大西洋岸とセネガル川流域には平野が広がり、内陸部は高原となっている。国内最高峰は北部のズエラート付近にある山(915m)で、全山が磁鉄鉱からなるためコンパスを狂わすと言われる。近年サハラ砂漠の砂漠化の拡大が問題となっている。ケッペンの気候区分によれば、全土が砂漠気候であるが、南部のサヘルはステップ気候になる。冬にハルマッタンと呼ばれる北東の風が吹き出す。低緯度地域ではあるが、沿岸部は寒流であるカナリア海流の影響により、温暖な気候となっている。首都ヌアクショットの年間降水量は100mmを越えない。の被害を受けた。独立以前は牧畜や南部の農業等しか産業が存在しなかった。1960年の独立以降、天然資源(鉱業、農業、漁業、牧畜)の開発と有効利用を中心に経済・社会の発展が図られ、特に漁業と鉱業の発展は著しかった。1980年代に入ると中小規模の産業も生まれ、今日のグローバル化の厳しい競争環境の中で生き延びている。外貨収入は水産物(タコ及びイカ)及び鉄鉱石、銅の輸出に依存してきたが、2006年2月からChinguetti海上油田の生産を開始し、他の油田も開発途上で、モーリタニアの経済・社会発展は強化されつつある。収入源となる新しい経済部門を得たことは、今後、経済の再活性化、多様化につながると見られている。日本が輸入するマダコの主要輸入先の一国である。特にタコは日本で食べられているタコの3割(他、日本30% 中国11% モロッコ10% その他19%~財務省 貿易統計【2012年】)を占めている。日本への輸出額は年間、約170億円にもなる。だが、元々砂漠の遊牧民でラクダや牛を食料源としてきたモーリタニアの人々は、近年になって魚介類も食べ始めたものの、タコだけは見た目への嫌悪感から食べられなく、未だにタコを食べる習慣が無いとのこと。2005年9月に「採掘産業の透明性イニシアティヴ(ITIE)」に参加し、「石油収入国家基金」を法により設立し、石油から得た収入を全額基金に振り込むことを決定した。基金は国外の銀行に設けられ、国際監査を受ける。政府は、モーリタニア石油資源管理に大きな特権を有する国営石油会社「モーリタニア炭化水素公社 Société Mauritanienne des Hydrocarbures(SMH)」も設立した。OECDの最新報告によると、モーリタニアの2006年の成長率は26.9%となると予想されている。モーリタニア鉄道の貨物列車は一本の車両につき車両数230両、長さは約3kmもあり世界一の長さを誇る。この長さは山手線に譬えると原宿駅から恵比寿駅間に匹敵する。主に鉄鉱石を運搬しており、ズエラットからヌアディブ間の約650kmを15時間から20時間掛けて、ディーゼル車1本のみの4000馬力の動力で牽引している。国民の40%がムーア人(アラブ人とベルベル人の混血)と黒人の混血、あとの30%ずつがムーア人と黒人である。黒人諸民族は、人口の7%を占めるウォロフ人のほか、トゥクロール人、、セレール族、ソニンケ族、プル人などが居住する。多年のムーア人支配の影響で、社会の上層部はムーア人が占める。アラブ人には遊牧生活を営むベドウィンも存在する。アラビア語を公用語とする。(なお、モーリタニアで話されているアラビア語は「ハッサーニーヤ」と呼ばれ、黒人言語やベルベル語、フランス語の影響を受けている。)支配層のムーア人は人種的にはベルベル人の要素が強いが、文化的には長い間のイスラームの影響によりアラブ化しており、ベルベル語を保っているものは少数である。その他、ウォロフ語、フランス語などが使われている。高等教育を受けた、商業関係者、政府役人、教育関係者の間では多くフランス語が用いられる。イスラームを国教とし、1991年の憲法改正でイスラーム法(シャリーア)が正式に採用された。イスラム教徒の比率は99.1%である。6歳から12歳までの初等教育が無償の義務教育期間となっており、その後6年間の総合中等教育を経て高等教育を行う。2003年の15歳以上の人口の識字率は51.2%である。モーリタニアには、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件、自然遺産が1件ある。----"このページはのテンプレートを使用しています。" "8599
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