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日本書紀

『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。『古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯の記載がない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、とある。その意味はということである(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 天智天皇は白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北し、記紀編纂の余裕はなかった。既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。『日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と記載があることを重視する。中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法にならったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持しているといわれる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は天平10年(738年)の成立とされる。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』・『後漢書』のように、全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこで、この説の論者は、現存する『書紀』は中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。また、読みについても、「にほんしょき」なのか「にっぽんしょき」なのか、正確な答えは出されていない。当時、「やまと」と訓読されることもあった「日本」という語を、どのように音読していたかは不明であり、また、奈良・平安時代の文献に「日ほん」という記述があっても、濁音も半濁音もなかった当時の仮名遣いからは推測ができないからである。主な例として、岩橋小弥太は著書『日本の国号』(吉川弘文館、ISBN 4642077413)のなかで「にっぽんしょき」の説を主張している。この議論は未だに決着していないが、現在では一般的に「にほんしょき」が通用している。なお、一部には『日本紀』と『日本書紀』を別の書と考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されている。『日本書紀』の資料は、記事内容の典拠となった史料と、修辞の典拠となった漢籍類(『三国志』、『漢書』、『後漢書』、『淮南子』など)にわけられ、さらに、史料には以下のようなものが含まれると考えられている。なお『日本書紀』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子や蘇我馬子に編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すといわれている。また『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には、次に掲げるように、書名を明らかにしているものがあるが、いずれの書も現存しない。『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。『日本書紀』の文体・用語など文章上のさまざまな特徴を分類した研究・調査の結果によると、全三十巻のうち、巻第一・巻第二の神代紀と巻第二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の25巻は、大別してふたつにわけられるとされる。その一は、巻第三の神武紀から巻第十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻第十四の雄略紀から巻第二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻第二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻第二十四の皇極紀から巻第二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻第十三と巻第十四の間、つまり、雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文のα群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文であるβ群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している。またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる。『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずるとしている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため538年(宣化3年)と推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように、『日本書紀』には改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている。古い時代の天皇の寿命が異常に長いことから、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。明治時代に那珂通世が、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、中国の讖緯(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づくという説を提唱した。三善清行による「革命勘文」で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされる。この那珂による紀年論は、定説となっている。日本書紀の紀年がどのように構成されているか明らかにしようとする試みが紀年論で、様々な説がある。小川清彦の暦学研究によれば、『日本書紀』は完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、干支による紀年で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいて、その記事が月の何日に当たるかを計算できる。また、小川清彦は中国の元嘉暦と儀鳳暦の2つが用いられていることを明らかにした。神武即位前紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、儀鳳暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい儀鳳暦を古い時代に、古い元嘉暦を新しい時代に採用している。これは、二組で撰述したためと推測され、また日本書紀における日付が後代の捏造であることの証拠である。詳細は、小川清彦 (天文学者)#暦学研究を参照のこと。応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると『三国史記』と年次が一致する。したがって、このあたりで年次は120年古くに設定されているとされる。しかし、これも『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するもので、前後の日本伝承による記事には必ずしも適用されないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない。一方、『古事記』は年次を持たないが文注の形で一部の天皇について崩御年干支が記される。『日本書紀』の天皇崩御年干支と、古い時代は一致しないが、は一致する。本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。中国では清の時代まで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時としては東アジアにおいて画期的な歴史書だったといえる。あるいは、それゆえに、現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。ただし、『釈日本紀』の開題部分には「一書一説」の引用を「裴松之三国志注の例なり」と記されており、晋の陳寿が著した『三国志』に対して宋(南朝)の裴松之が異説などを含めた注釈を付けた形式のものが日本に伝来され、『日本書紀』のモデルになった可能性はある。なお、日本書紀欽明天皇2年3月条には、分注において、皇妃・皇子について本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。この記述がどの程度事実を反映しているのかは不明であるが、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が、現在みられる『日本書紀』全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。『日本書紀』には訓読や書名をあげての文献引用など、本文とは別に分注(分註)と呼ばれる割注記事がみられる。かつては分注は後世の創作とする説も存在したが、今日では『日本書紀』成立当初から存在していたと考えられている。また、前述の「一書に曰く」も平安期の写本の断簡の中には分注と同じ体裁で書かれており、原本では分注の一部であった可能性がある。成立当初からの分注の存在は『日本書紀』独自の形式であるが、前述の『三国志』の裴松之による注のように中国の歴史書において後世の人物が本文に注を付けてさらに後々に伝えられる例は存在しており、『日本書紀』の編者がこうした注の付いた中国の歴史書の影響を受けた可能性がある。続日本紀にある日本書紀の完成記事には「紀卅卷系圖一卷」とあり、成立時の日本書紀には現在伝えられている三十巻の他に系図一巻が存在したと考えられている。日本書紀の「紀卅卷」が現在までほぼ完全に伝わっているのに対して系図は全く伝わっていない。弘仁私記にはこの系図について、「図書寮にも民間にも見えない」としてすでに失われたかのような記述があるが、鎌倉時代に存在する書物を集めた記録では「舎人親王撰 帝王系図一巻」とあり、このころまでは存在したとも考えられる。「新撰姓氏録」には「日本紀合」という記述が散見されるが、現存の「日本書紀」に該当する記述が存在しない。これは失われた系図部分と照合したものであると考えられている。この「系図一巻」の内容については様々に推測されている。例えば日本書紀では初出の人物の系譜を記すのが通例なのに、系譜の記されない人物が若干存在するが、これらについては系図に記載があるために省略されたと考えられている。また、記紀ともに現存の本文には見えない応神天皇から継体天皇に至る系譜についてもこの失われた「系図1巻」は書かれていた可能性を指摘する説がある。『日本書紀』には各天皇の即位の年の末尾に「この年太歳(大歳)」としてその年の干支を記した記事があり、「太歳(大歳)記事」と呼ばれている。日本書紀が参考にした中国の史書にも「続日本紀」などのこれ以後の日本の史書にもこのような記事は無く、この記事の意義は不明である。ほとんどの天皇については即位元年の末尾にこの大歳記事があるが、以下のようにいくつか例外が存在する。このような例外が存在する理由については諸説があり、中には皇統譜が書き換えられた痕跡ではないかとする見解もあるが、広い賛同は得ていない。なお、太歳については太歳と太歳紀年法を参照。天皇の名には、天皇在世中の名である諱(いみな)と、没後に奉られる諡(おくりな)とがある。現在普通に使用されるのは『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762)〜同8年(764)、淡海三船による神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇へ一括撰進された漢風諡号であるが、『日本書紀』の本来の原文には当然漢風諡号はなく、天皇の名は諱または和風諡号であらわされている。15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、おおむね諱、つまり在世中の名であると考えられている。その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、ササギなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。現存する最古のものは平安極初期のもの(田中本巻第十ならびにその僚巻に相当する巻第一の断簡)。写本は古本系統と卜部家系統の本に分類される。(この他に「伊勢系」を分けて考える説もある)神代巻(巻第一・巻第二)の一書が小書双行になっているものが古本系統であり、大書一段下げになっているものが卜部家系統である。原本では古本系統諸本と同じく小書双行であったと考えられている。以下に国宝や重要文化財に指定されているものをいくつかあげる。『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老5年(721年)には早くも『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中にて時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。開講から終講までに数年を要する長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に七年を要している。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。以下に過去の書紀講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。なお、書紀古写本には単に「私記説」という形で引用されているものも多い。これらは上記年次私記のいずれかに由来すると思われるが、特定はできない。その他にも、書紀古写本に見られる声点付きの傍訓は何らかの由緒ある説に基づくと見られるから、上記私記の末裔である可能性がある。ちなみに、現在成書の形で存在する『日本紀私記』には、上述した甲本・丁本の他に、僚巻と見られる乙本(神代紀に相当)と丙本(人代紀に相当)の二種類が存するが、こちらはある未知の書紀古写本から傍訓のみを抜き出し、適宜片仮名を万葉仮名に書き換えてそれらしく装ったもの(時期は院政〜鎌倉期か)と推定されており、いわゆる年次私記の直接の末裔ではない。元慶の講筵から、終講の際に竟宴が行なわれ、「日本書紀」に因む和歌が詠まれた。歌題は、神、王、英雄、貴族などであった。元慶、延喜、承平の講筵の竟宴和歌が「日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)」(943年(天慶6年)成立)に編纂された。日本書紀は史料批判上の見地から信憑性に疑問符がつく記述をいくつか含んでいる、以下はその例を示す。中国の史書『晋書』安帝には、266年に倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたと記載がある。この間は中国の史書に記述がなく、考古学的文字記録はないことから、「謎の4世紀」と呼ばれている(4世紀後半以前の皇室の成立過程についてはヤマト王権の項を参照)。倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、千葉県稲荷台1号古墳出土の鉄剣銘文、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。しかし、当時、朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。また『隋書』卷八十一・列傳第四十六 東夷には次のようにある。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、5世紀中頃の雄略天皇の実在を認めた上で、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承に一定の真実性を認めようとする意見も存在する。金錯銘鉄剣からは、5世紀中頃の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成していたことがわかる。その銘文には「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図が記されており、「意富比垝(オホヒコ)」を記紀の第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」(四道将軍の一人)と比定する説がある。また、川口勝康は「乎獲居(ヲワケ)」について、「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」とし、豐韓別命は武渟川別の子と比定しているが、鉄剣銘文においては弖已加利獲居(テヨカリワケ)は多加利足尼の子であるとする。聖徳太子による国史の成立以前にも各種系図は存在した。これらを基礎にして、継体天皇の系図を記した『上宮記』や、『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に、推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が崩御した継体天皇25年(531年)は当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀ごろの成立と考えられている。『日本書紀』には、推古天皇28年(620年)に、「是歲 皇太子、島大臣共議之 錄天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」(皇太子は厩戸皇子(聖徳太子)、島大臣は蘇我馬子)という記録がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が事実あったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、このとき、聖徳太子らが作った歴史書『国記』・『天皇記』は、蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされたときに大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。現代では、継体天皇以前の記述、特に、編年は正確さを保証できないと考えられている。それは、例えば、継体天皇の没年が記紀で三説があげられるなどの記述の複層性、また、『書紀』編者が、『百済本記』(百済三書の一つ)に基づき、531年説を本文に採用したことからも推察できる。百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。百済三書は、6世紀後半の威徳王の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事の対照により、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く、また、任那日本府に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)を「貴国」と呼称する記述がある。山尾幸久は、これまでの日本史学ではこの「貴国」を二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいるため、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている。現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている。山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある。

出典:wikipedia

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