国体(こくたい)(旧字体:國體)とは、八木秀次によれば“ある国の基礎的な政治の原則”。事実上、日本の事象に特化した政治思想用語であり、特に「天皇を中心とした秩序(政体)」を意味する語とされている。そのため、外国語においても固有名詞扱いで "Kokutai" と表記される。【國】とは政体の下に属する土地・人民、地理上の区画、首都、封土、ふるさとの意。【體】とは典型または規範などの意。一般に国体とは、日本神話の、皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(神勅)天皇により統治された、人民や古里の決まりといった意義。国体論では、とりわけ他国との対比において、王朝交代・易姓革命・近代においては市民革命が起きなかったことを、日本の国体の表れとして重視する。論者の大部分は天皇による国家統治を国体の不可欠の要素として主張する。不変の国体の存在を措定する限りにおいて、国体論は概して民族主義的・保守主義的立場といってよいが、その範囲内で、具体的に何を日本の国体の本質とみなすかは、時代や論者によって差異がある。国体論の視座は大別して「徳」と「智」があり、徳川封建社会以来のイデオロギーとしての朱子学や儒家的な思惟を重視すれば、国体とは個人の内面や実践に深く関わっており、親兄弟、家族や地域とのかかわりといった儒教的全体としての側面が強調され(徳)、それは西洋近代の先進文明が象徴する(智)に優先する。智を優越させた立場は福沢諭吉の「文明論之概略」であり、近代主義的な西欧文明論による日本社会の改造を意味する。「建國の體」を重視する君権学派は前者であり、「海外各國ノ成法」を重視する立憲学派は後者となる。「国体思想」の要素はなどが挙げられる。「国体」は旧字体では「國體」と書き、古くから漢籍に見える。「国体」の文字は『管子』君子篇では「国を組織する骨子」の意味で、『春秋穀梁伝』では「国を支える器」の意味で用いられている。古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味している。国家観の意味で「国体」の語が用いられるようになったのは江戸後期以降であるが、それ以前にも国体の萌芽となる思想は現われていた。そのひとつは、日本を神々の国であるとする神国思想、もうひとつは皇位の血統性を強調する皇国思想である。『古事記』・『日本書紀』は、日本の国家と皇室の由来を語りおこしており、それ自体が神国思想といえる。一方、皇位の血統的連続性を直接明言する記述は少なく『日本書紀』の一書(別伝)に天壌無窮の神勅がみられる程度である。これは、天皇の先祖が高天原から降下したという天孫降臨において、天降りする孫に天照大神が与えたとされる言葉である。皇位の栄えは天地とともに無限であろう、と言祝(ことほ)ぐ。明治以降特に強調された言葉ではあるが、『日本書紀』の本文では採用されておらず、編纂時に強調されていなかったようである。ただし、『古事記』・『日本書紀』はその全体が、皇統の系譜を叙述の規範としており、皇位の血統的連続性いわゆる万世一系を前提とした史書である。一説には、雄略天皇は、中華皇帝から倭王に封じられた最後の天皇であり、これ以降、歴代天皇は中華皇帝に臣下の礼をとらなくなる。雄略天皇はまた国内では「治天下大王」を名乗り、自己より上位の権威を認めない姿勢を示した。武烈天皇の崩御に伴って、大和の有力豪族たちは皇族を遠く北陸からむかえ皇位に推戴した。これが継体天皇である。こうした有力豪族たちの行動は、皇位には何よりも血統性が重要であるという一種の信仰を背景としたものであり、日本独自の国体観の始まりといえる。中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に、元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。朱子学が鎌倉後期に日本に伝来すると、その正統主義、尊王斥覇の思想が日本の国体観に加わった。後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒し天皇親政を試みた。鎌倉幕府の倒壊から南北朝時代を物語る『太平記』は、楠木正成などの南朝方武将を好意的に描き、後の歴史観に大きな影響を残した。また南朝方の有力公家北畠親房は南朝の正統性を主張するために歴史書『神皇正統記』を著し、皇国史観の元祖となった。又、戦国時代末期には、豊臣秀吉が外国宛書簡で神国思想を表明した。これは、江戸幕府を樹立した徳川家康にも継承された。徳川時代に入ると学者による論説が登場した。これには儒学者の流れと国学者の流れがある。儒学者流では、山崎闇斎とその学統が有名である。山崎闇斎は神儒一致(神道と儒教との一体化)の垂加神道を唱え、その弟子浅見絅斎は『靖献遺言』を著し尊皇思想の源流となった。闇斎は、皇統はそれ自体が道の存在を示しており、さらには天皇こそが儒教的な人倫の道の体現者であるとした。一説には、孫弟子の栗山潜峰(1671年(寛文11年) - 1706年(宝永3年))は、国体の語を日本独自の国家観の意味で初めて用いたといわれている。水戸藩作成の史書『大日本史』には、孫弟子の三宅観瀾や栗山潜鋒らが編纂に携わった。『大日本史』は、朱子学の正統主義の立場から、南朝正統論を強調した。水戸学では日本とは一つの道徳的実残の運動体(国体)であると考えられており、山崎闇斎の思想とともに幕末の尊皇攘夷運動の思想的契機の一つとなった。一方、国学者流では本居宣長の影響も大きい。ほとんど読めなくなっていた『古事記』の解読にほぼ成功して、神国思想を強調した。「国体」の語を用いた国家論が本格的に始まるのは、水戸学以降である。会沢正志斎は著書『新論』1825年(文政8年)の冒頭で国体と題した章を設けて尊皇攘夷を論じた。また、藤田東湖が起草し同藩主徳川斉昭が撰文した『弘道館記』1837年(天保8年)は「国体以之尊厳」と刻み、日本の道徳が皇統に由来することを説いた。これら水戸学者の著作は幕末の志士たちの間で広く読まれたことから、「国体」の語が一般に通用するとともに、水戸学流の国体観念が明治維新の原動力となる。吉田松陰は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。後、吉田松陰門下から明治政府の高官となった者が多く、吉田松陰の国体観が明治国家に与えた影響は大きい。水戸学の国体論とは別に大きな影響力を持ったものとして頼山陽『日本外史』がある。これは「国体」の語を用いていないが、尊皇思想を背景に南朝方武将の楠木氏や新田氏を忠臣として描写しており、幕末の志士の間で多くの愛読者を獲得した。国学者平田篤胤は神国思想に基づく国体を論じた。篤胤は禁書であったキリスト教関係の書を参照して、「アメノミナカヌシノカミ」(天御中主神)を創造神に位置づけ、世界を「幽冥界」と「顕明界」とに分け、前者は「オオクニヌシノミコト」(大国主命)が、後者は「天皇」が統治する世界であると考えた。そして天皇を全世界(人類・生物・物質)の統治者として位置づけた(平田篤胤『霊能御柱』)。こうした平田国学は豪商豪農層に広い支持を獲得し、一部の武士階級にも尊皇・攘夷の思想を育んだ。この解釈は1880年(明治13年)に始まる神道事務局祭神論争での出雲派の敗北によって表面上は衰退したが、現在でも神道系の新宗教の多くはこの解釈を奉じている。「国体」に関する著作は、明治7年に小早川惟克『國體略附政體』、太田秀敬『國體訓蒙』、田中知邦『建國之體略記』、明治8年に石川貞一『國體大意』、加藤弘之『国体新論』が発表されていた。加藤弘之は『国体新論』を著して「人民を以て独り天皇の私有臣僕となすが如き」「従来称する国体」は「野鄙陋劣」であると批判し、「欧州の開明論」による「国家君民の権利義務」の理が「公明正大なる国体」であると主張した。これは明治政府の一部から批判を受けたため、加藤弘之は著書を自ら絶版するとともに、思想を転向し、社会進化論に基づき明治国家を擁護するようになる。1876年(明治9年)、元老院に憲法起草を命じる勅語は「我が建国の体に基き広く海外各国の成法を斟酌して以て国憲を定めんとす」としており、「建国の体」即ち国体に基づいた憲法が要求された。これを受けて元老院が作成した憲法案は、伊藤博文に「各国の憲法を取り集めて焼き直ししただけであり、我が国体人情等に少しも注意したものとは察せられない」と反対され、廃案になった。1881年(明治14年)10月12日に、次のような国会開設の勅諭が発された。「朕、祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣ぎ、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総攬し、又、つとに立憲の政体を建て、後世子孫継ぐべきの業をなさんことを期す。さきに明治八年に元老院を設け、十一年に府県会を開かしむ。これ皆、漸次、基を創め、序に循て歩を進むるの道によるにあらざるはなし。なんじ有衆また朕が心を諒とせん。顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。今、在廷臣僚に命じ、仮すに時日をもってし、経画の責に当らしむ。その組織権限に至っては、朕、親ら衷を裁し、時に及んで公布する所あらんとす。朕おもうに、人心進むに偏して、時会速なるを競う。浮言相動かし、ついに大計を遺る。これ宜しく今に及んで謨訓を明徴し、もって朝野臣民に公示すべし。もしなお故さらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、処するに国典をもってすべし。特にここに言明し、なんじ有衆に諭す。奉勅 太政大臣 三条実美」この勅諭においては「立国の体」即ち国体のそれぞれの国における固有性と、当時の国家一大事業として「立憲の政体を建て」る事の弁別が既に明確となっている。憲法起草を命じられた伊藤博文は欧州で憲法調査を終えて帰国した後、1884年(明治17年)、閣議の席上で「憲法政治を施行すれば、おのずから国体が変換する」と演説した。伊藤の部下であった金子堅太郎は伊藤を批判して「上に万世一系の天子が君臨するというこの国体にはなんらの変換もありませぬ。閣下は国体と政体との意味を取り違えておられる」と主張。伊藤は「国会を開いて政体を変えればこれも国体変換ではないか」と反駁したものの、これ以降国体変換を口にすることはなくなった。大日本帝国憲法制定後、伊藤の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳った。上杉慎吉は「天皇ノ主権者タルコトハ我ガ日本ノ国体ニシテ、人民ガ主権タルハアメリカ合衆国ノ国体ナリ」 と述べている。東京帝国大学で憲法学を教授していた筧克彦法学博士は、貞明皇后に「古神道及び国体学」に関し皇后宮にて進講。御進講録「神ながらの道」は皇后宮職より公刊。また1935年(昭和10年)に文部省開催の、憲法講習会の講演録「大日本帝國憲法の根本義」を文部省憲法教育資料中の1冊として上梓。同書には以下のようにある。天孫降臨より皇国神ながらの御主人様つまり国家主体として、天皇がある事をあきらかにした同講演が文部省主催であったことで、国家公認の国体学の権威としての地位をかため、皇太后宮より著作が公刊されたことにも伴い、帝国政府部内の国体説としては敗戦まで批判を許さなかった。詳細は筧克彦参照。日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行し始める。憲法学者穂積八束は「我が日本固有の国体と国民道徳との基礎は祖先教に淵源す。祖先教とは先祖崇拝の大義を謂う。」「天祖は国民の始祖にして天皇は国民の宗家たり」と述べ、また、高山樗牛も「皇室は宗家にして国民は末族なり」とした。井上哲次郎も「我国は其総合家族制度の究極のものにして、其家長が天皇なり。」としている。天皇機関説により憲法を立憲君主制へ解釈改憲し、政党内閣の法的裏付けを求める動きが大正デモクラシーのバックボーンとなった。憲法学者美濃部達吉と上杉慎吉の論争を経て、天皇機関説は事実上の通説となった。著名な国語学・文法学者であり、文部省起草「国体の本義」起草にも関わったとされる山田孝雄は1910年「大日本国体概論」を出版し身体論的国家観を提示した。ここに見られる類比的思考は西欧で広範に見られる<自然>な身体をモデルにした国家有機体説であり、「ペストやコレラの病毒の如き」「無政府共産主義の如きものゝ伝来に接し仮初にも之に感染するの偏狭者」「病気で衰弱した身体にバチルスの入り易い様に毒は直ちに食ひ込んだ」「日露戦後の世間が疲弊した弱身にくひ込んだ病気である」といった有機体としての国家、あるいは隠喩としての病の比喩は、この時代の空気であった。民本主義の主唱者吉野作造は「君民同治を理想とする所の民本主義の政治は、…寧ろ国体観念を鞏固にするものである。」(「民主主義と国体問題」『大学評論』1917年(大正6年))と述べ、美濃部達吉は「政治上の意義に於ての民主主義は…毫も我が国体に抵触するものではなく、却って益々国体の尊貴を発揮する所以である。」(「近代政治の民主的傾向」『太陽』1918年(大正7年))と主張した。明治期にはキリスト教を排撃していた井上哲次郎も、「日本の国体は万世一系の皇統を中心として来られるもの、日本は君主国にして民本主義を取れり、君主主義と民主主義との調和を保てるものにして其所に我国体の安全は存す」(『我国体と世界の趨勢』)と、民主主義に寄る姿勢を示した。1921年(大正10年)、内務省神社局は『国体論史』を出版し、国体論の歴史を概観するとともに、「神話はその国民の理想、精神として最も尊重すべし。それは尊重すべきのみ、これを根拠として我が国体の尊厳を説かんと欲するは危し。先入主として、これらの『国造り説』と相容れざる進化学上の知識を注入せられおる国民はあるいはこれを信ずる事をえざるが故なり」とした。内務省神社局がこのような見解を示していたことは注目される。内務省神社局長であった水野錬太郎(内務大臣・文部大臣・神職会会長等も歴任。「天皇の政治利用」だと非難されて文部大臣辞任に追い込まれた。水野文相優諚問題参照。)は「日本の仏教は早くから国体精神と同一化し、儒教も、もとより国体精神と同一化してをり、そのほか外国の新文明新思想も国体精神と一致しつつあるもので、外来の思想を論難したり議論すべきでない」 と述べている。1922年(大正11年)、共産主義インターナショナル(コミンテルン)は日本の共和制への移行というテーゼを日本共産党に示唆した(日本共産党においてはこの22年テーゼは草案段階に終わる)。このような国体変革を狙った動きに対して、1925年(大正14年)公布の治安維持法は「国体の変革」を目的とした結社を禁止し、更に田中義一が主導した1928年(昭和3年)の法改正で最高刑が死刑に引き上げられた。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決によれば「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」(大判昭和4年5月31日刑集八巻317頁)とされた。治安維持法により共産主義革命運動が厳しく摘発されるとともに、この頃から「国体の変革」が言語的タブーとなる。そうした環境下においてもなお、コミンテルンは日本の政体をドイツ語のMonarchieと規定、君主制の廃止を日本共産党に示唆した。君主制は「天皇制」と翻訳される。日本共産党は32年テーゼで天皇制打倒を目標に掲げ、当局から厳しく摘発された。1927年、新たに結成された立憲民政党が政綱に「議会中心的主義」と掲げたのに対し、翌年、その対立政党である立憲政友会の鈴木喜三郎(当時内相)は「議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に棹さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」(大阪朝日新聞1928年2月20日)と批判。逆に、政友会内閣が締結した不戦条約に「人民の名において」という文言があったのをとらえて、野党民政党はこれを国体に反するものとして論難した。第二次大戦期におけるこうした「国体」観念のあり方は、戦後の政治学や歴史学の立場から「天皇制ファシズム」と称されることがある(天皇制ファシズム参照)。「日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。」「稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。」(以上金森徳次郎国務大臣、1946年(昭和21年)6月25日衆議院本会議答弁)
出典:wikipedia
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