武庫川線(むこがわせん)は、兵庫県西宮市の武庫川駅から武庫川団地前駅までを結ぶ阪神電気鉄道の鉄道路線である。全線単線だが、武庫川 - 洲先間は、複線分の用地が確保されている。武庫川西岸の築堤沿いに走る、西宮市南東にある武庫川団地の通勤・通学路線である。キロポストは武庫川団地前から武庫川に向かって純粋に数字が増えていく。2キロポストは洲先駅と東鳴尾駅の中間地点にある。線内折り返し列車がワンマン運転で運行されている。全列車が2両編成で、朝夕は2編成が運用に入り、東鳴尾駅で交換を行う。早朝・日中と深夜近くから終電までの間は1編成のみの運用である。線区自体が短いため、全列車が普通列車であり、また途中駅を始発や終着とする区間運用は存在しない。昼間は20分間隔、平日朝は12分間隔、土休日朝と夕方は10分間隔、早朝・夜間は12 - 15分間隔での運転である。使用する編成は、武庫川線専用の7890・7990形と、ワンマン運転対応改造を受けた7861・7961形の一部編成のみに限定されている。いわゆる赤胴車を使用してはいるが、前述の通りすべて普通列車(各駅停車)としての運行である。なお、試運転では1000系の2両編成が走行した実績がある。7890・7990形、7861・7961形以外の形式の入線は3301形(現在廃車)以来であった(3301形は1984年まで運用)。信号現示は、停止(赤)、警戒(黄×2)、注意(黄)の3種類のみで、全線で最高速度が45km/h(注意信号相当)に制限されている。よって、線内の信号機には、進行現示に用いる青色灯が入換信号機を除いて存在しない(以前は、青色灯の部分がふさがれていた)。また、警戒現示は東鳴尾駅の場内信号機で、2編成運用時のみに見られる。ただ、最高速度が低く抑えられている割には、架線は高速運転が可能なコンパウンドカテナリー式となっている。1日の運用は、以下の通り。なお、以前は最終運用後の編成も尼崎車庫へ回送し入庫、翌朝の始発前に出庫し回送していたが、現在は1編成が夜間現地留置となっている。ワンマン運転については、ドア開閉スイッチが運転席になく、ドア扱い時は運転士が直接目視で確認しつつ行う(必ず運転席から離れる)ようになっているため、停車からドア開までと、ドア閉から発車まではそれぞれ5秒程度の時間がかかる。阪神3路線の中で唯一、阪神の車両のみ、また2両編成のみが走る路線である。また大晦日から元日にかけての終夜運転も行わない路線である。現在は武庫川団地となっている西宮市高須町にあった軍需工場、川西航空機(現・新明和工業)への従業員および資材輸送のために建設された。軍の要請での路線建設であったため、阪神の一般社員や学生の勤労奉仕隊なども動員した突貫工事が行われた。用地は全線複線分を確保していたが単線で建設され、武庫大橋、武庫川、東鳴尾の各駅で上下列車が交換できるようになっていた。開業当時の洲先駅は現在の武庫川団地前駅付近にあたる。開業後1年経たないうちに川西航空機の工場とともに空襲の被害を受け、期待された目的を十分に果たせないまま終戦を迎えている。西ノ宮駅(現・西宮駅)から国鉄貨車の乗り入れのため武庫大橋 - 洲先間は三線軌条化されていた。国鉄の貨物列車のみが乗り入れる西ノ宮 - 武庫大橋間は、阪神の路線としては未開業(未成線)扱いとされ、貨物列車は全線にわたって国鉄の管理の下に運行されていた。なお、貨物輸送は川西航空機工場を接収した進駐軍の要請もあって戦後も続けられたが、1950年代には運行が停止され1958年(昭和33年)に正式に休止となった。旅客営業としては、戦後すぐに全線の旅客営業が休止とされた後、1948年10月に武庫川から現在の洲先駅までの1.1kmのみ運行が再開された。その後、武庫川団地の開発にともなって武庫川団地駅まで延伸され、現在に至っている。なお、廃止された区間のうち、武庫川 - 武庫大橋間1.5kmは、本線との合流のための引き上げ線の部分とその先の100mほどの敷地を除いて民間に売却され、駐車場や住宅となっているが、住宅が武庫川沿いに細長く均一に連続している状態から、往時の軌道敷の跡を想像することもできる。武庫大橋 - 西ノ宮間は、甲子園口駅東方の東海道本線(JR神戸線)との合流部であった場所までは空き地が目立つが、その合流部には阪神園芸所有の建物が建てられていた。現在は取り壊され、その跡地に分譲マンションが建っている。また、甲子園口駅では、武庫川線の廃線跡が下り外側線に転用され、内側線には折り返し設備が設けられている。西ノ宮駅 - 甲子園口駅 - 武庫大橋駅 - 小松駅 - 武庫川駅
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。