ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、 、、)は、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。『アヴェスター』を根本経典とする。ゾロアスター教の起源は古く、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが成立したときには、すでに王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であった。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝のパルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られ、3世紀初頭に成立した、後続するササン朝でも国教とされて王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた。ゾロアスター教は、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジアや中国へも伝播していった。7世紀後半以降のイスラームの台頭とペルシア人のムスリム化によってペルシアのゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。17世紀以降のイギリスのアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒とのあいだで関係が深まり、現在もきわめて少数派ながらインド社会で少なからぬ影響力を保持している。ゾロアスター教の教義は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われている。開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)とされる。経典宗教の特徴を有し、その根本教典より「アヴェスターの宗教」ともいえる。そうしたイラン古代の宗教的伝統の上に立って、教義の合理化・体系化を図った人がザラスシュトラであるとも考えられる。ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な「火」(アータル、)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全寺院には、ザラスシュトラが点火したといわれる火が絶えることなく燃え続けており、寺院内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する。中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、唐代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただし、アケメネス朝の宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パーシー(パースィー、パールシー)」の語を用いて、パーシー教ないしパールシー教とも称される。今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている。インドやイラン、その他、欧米圏にも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派の地位にとどまっている。世界最古の預言者といわれるザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)は、紀元前1600年頃から紀元前1000年頃にかけて生きた人といわれるが、その生涯の詳細についてはよくわかっていない。しばしば、ゾロアスター教の創始者といわれ、「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来するが、その活動には今なお不明なところが多い。ゾロアスター教発祥の地と信じられているのが、古代バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語: Balkh)の地である。バルフは現在のアフガニスタン北部に所在し、ゾロアスター教の信徒にとっては、ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視されてきた。ゾロアスター教の儀式のなかで最も重要とされるのがジャシャンの儀式である。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質的ないし精神的世界に平和と秩序をもたらすものと考えられている。ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することによって生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる。ゾロアスター教の祭司は、白衣をまとい、伝統的な帽子をかぶり聖火を汚さぬよう白いマスクをして儀式に臨む。ここでは清浄さがあくまでも求められるのである。また、ゾロアスター教への入信の儀式がナオジョテ(ナヴヨテ)である。ナオジョテがおこなわるのは7歳から12歳ころまでにかけてで、儀式では、入信者は純潔と新生の象徴である白い糸(クスティ)と神聖な肌着(スドラ)を身につけ、教義と道徳とを守ることを誓願する。ゾロアスター教の守護霊は、「プラヴァシ」と呼ばれている。プラヴァシは善をあらわし、また、この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として、ゾロアスター教における神の神髄をあらわしていると考えられており、善のために働き、助けを求めている人を救うであろうと信じられている。ゾロアスター教の礼拝は、「火の寺院」と称される礼拝所でおこなわれる。寺院は信者以外は立入禁止となっており、信者は礼拝所に入る前、手と顔を清め、クスティと呼ばれる祈りの儀式をおこなう習わしとなっている。クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げるのである。ゾロアスター教の葬送は、鳥葬ないし風葬であり、今日ではあまり見られない風習のひとつである。この葬送は、遺体を棺などに埋納せずに野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるというもので、そのための施設が設けられることもある。この施設は「沈黙の塔」(ダフマ)と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむことのできる構造の建物となっている。ゾロアスター教の教義によれば、人間はその肉体もアフラ・マズダーはじめとする善神群の守護のもとにあるのだから、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされることのないよう、鳥葬ないし風葬がなされると説明されている。ゾロアスター教では、自分の親、子、兄弟姉妹と交わる最近親婚を「フヴァエトヴァダタ」と呼んで最大の善徳としており、聖典『アヴェスター』の(除魔の書)などでその教義が説かれる。アケメネス朝時代の伝承を綴った『』では、ニーシャープールの聖職者ウィーラーフの高徳の中で、最も称賛されるのが七人の姉妹と近親婚を実行したこととされる。また、彼は冥界の旅の中で天国で光り輝く者達を見たが、その中に住まう者として近親婚を行った者の姿があった。反対に、近親婚を破算にした女が地獄で蛇に苛まれている記述があり、その苦痛は永遠に続くという。ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、一般の人々など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。ゾロアスター教の聖典とされるのが『アヴェスター』である。サーサーン朝期に編纂されたと考えられる『アヴェスター』は、ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分とによって構成され、全部で21巻あるとされ、約4分の1が現存している。ゾロアスター教の教義の最大の特色は、善悪二元論と終末論である。経典『アヴェスター』によれば、世界は至高神であるアフラ・マズダー、およびそれに率いられる善神群(アムシャ・スプンタ)と大魔王アンラ・マンユ(アフリマン)および悪神群の両勢力が対峙し、たがいに争う場であり、生命・光と死・闇との闘争であるとされる。なお、ゾロアスター教の影響を受けたマニ教は、やはり徹底した二元論的教義を有しており、宇宙は光と闇、善と悪、精神と物質のそれぞれ2つの原理の対立にもとづいており、光・善・精神と闇・悪・肉体の2項がそれぞれ画然と分けられていた始原の宇宙への回帰と、マニ教独自の救済とを教義の核心としている。ザラスシュトラによれば、最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命、真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死や虚偽を選んだ。これにより、善悪2神の抗争の場である、この世界がかたちづくられた。アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神で、みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の創造者である。アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。また、善神の象徴は炎とされ、そこから火の崇拝が生まれている。悪神アエーシュマの影響で成立したと考えられる。善神と対峙する悪魔は、以下の通りである。ゾロアスター教の歴史観では、宇宙の始まりから終わりまでの期間は1万2千年とされ、3千年ずつ4つに区切られ、「(霊的+物質的)創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分けられ、現在は「混合の時代」とされる。アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界であったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争ののち、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられており、その後、新しい理想世界への転生が説かれている。そして、そのなかで人は、生涯において善思、善語、善行の3つの徳(三徳)の実践を求められている。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた。この来世観は、のちの後期ユダヤ教やキリスト教、さらにはイスラームへも引き継がれた。世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる。こうした、最後の審判や救世主の登場などの教義もまた、数多くの宗教に引き継がれたのである。ゾロアスター教は、古代のアーリア人が古くから信仰してきた自然崇拝の宗教を母体としていると考えられ、また、それを体系化していったのがザラスシュトラであると考えられる。古代アーリア人の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた。ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられているゾロアスター教の啓典である『アヴェスター』は、従前からの口承や伝承をもとにサーサーン朝の時代に編纂されたものとみられている。『アヴェスター』は、のみが現存している。以上のうち「ヤスナ」72章のうち17章は「」と呼ばれ、ザラスシュトラ自作の韻文と信じられており、現存する啓典のうち最古期の成立である。『アヴェスター』は、アケメネス朝時代の古代ペルシア語とは異なる言語(ガーサー語, 古代アヴェスター語)によって、1,200枚の牛の皮に筆録されていたという。大部分がアケメネス朝滅亡の際にいったん失われ、のちのパルティアの時代とサーサーン朝の時代に補修と復元が試みられた。3世紀のサーサーン朝時代、当時の中世ペルシア語(パフラヴィー語)への翻訳がなされ、以後、正典として『ゼンダ・アヴェスタ』と称された『アヴェスター』は、イスラーム時代にその約4分の3が失われたと伝えられており、教義の詳細や教団組織の全容を解明することはなかなかの難事である。ただし、「ガーサー」に示された「最後の審判」「天国と地獄」などの終末論的世界観が、後期ユダヤ教やキリスト教に影響をあたえたことは確かであり、さらに、死者にとって最後の結界の場である「」を教義のなかで設定していることは、仏教における「転生」」思想の形成プロセスを考慮するうえでも非常に示唆に富むできごとといえる。総じて、創造神であり最高の善神であるアフラ・マズダーへの信仰に基づく、究極の善悪二元論としての神義論の思想で首尾一貫している啓典であるといえる。また、古代メソポタミアや古代エジプト、古代ギリシャの信仰が失われてしまっている今日、ゾロアスター教はヒンドゥー教とともに現存する世界最古の体系的宗教、経典宗教だということができるゾロアスター教の開祖といわれるザラスシュトラの活動やゾロアスター教の成立に関しては、今なお不明なところが少なくない。イラン高原北東部に生まれたザラスシュトラは、従来インド・イラン語派のなかで信じられてきた信仰に、善と悪との対立を基盤に置いた世界観を提供し、また、きわめて倫理的な性格をもつ宗教に改革したといわれる。ザラスシュトラ以前のアーリア人(インド・イラン語派)の信仰においても、すでに「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた。そのため、単にアフラ・マズダーまたはミスラを信仰しているというだけでは、厳密にいえば、ゾロアスター教徒とはいえない。「異教時代」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教の信仰告白であるフラワラーネにあらわれている。そこでは5つの条件が挙げられている。すなわち、である。この5つに加えてさらに、アフラ・マズダーを、創造主ととらえたことが、従来のインド・イランの信仰と著しく異なる点である。ゾロアスター教は、紀元前1千年紀の前半、イラン東部からアフガニスタンを含む中央アジアの西部で成立し、その後、アケメネス朝の時代にはイラン高原にも浸透するようになっていたものと推測される。ゾロアスター教においては、世界は、光明をつかさどる善神のアフラ・マズダーと闇の世界を支配する悪神アンラ・マンユの闘争の場と見なされ、火はアフラ・マズダーの象徴として特に重視された。スピターマの一族に属するザラスシュトラの思想は、バルフ(現アフガニスタン)の小君主ウィシュタースパ王の宮廷で受容されて発展した。ザラスシュトラは、アフラ・マズダーの使者であり、神の啓示を伝える預言者としてこの世に登場し、善悪二神の争いの場であるこの世界の真理を解き明かすことを使命としていることを主張した。上述のようにザラスシュトラは、最初に2つの対立する霊があり、両者がたがいの存在に気づいたとき、善の霊アフラ・マズダーは生命と真理を選び、対立霊アンラ・マンユは死や虚偽を選んだと説いた。かれによれば、知恵の主アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手とするためにこの世界を創造した。その創造は天、水、大地、植物、動物、人間、火の7段階からなった。それぞれの被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された。それに対してアンラ・マンユは大地を砂漠に、大海を塩水にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという物理的な攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。このように、ザラスシュトラは、歴史とは創造された「この世界」を舞台とした2つの勢力の戦いであるという理解を示しており、このような歴史把握は、初期キリスト教の神学者であるアウグスティヌスの唱えた「神の国論」に先がけた歴史観といえる。善悪の抗争では最終的には善が勝利すると信じられる。上述のように、ゾロアスター教によれば歴史は「創造」「混合」「分離」の3期に分かれ、現在は「混合の時代」である。創造神アフラ・マズダーの「創造」によって始まった時代(「創造の時代」)は完璧な世界だったが、悪神たちの攻撃後「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。ここにあっては、すべての人間は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して悪徳を自らの中から追い出し、善が勝つように神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「チンワト橋(選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできたものは楽土(天国)へ渡ることができ、一方、悪を選んだものは橋から落ちて地獄に向かう。そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には悪と善は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。こうした世界観は、ペルシャからメソポタミアにも広がり、たとえばバビロン捕囚期のユダヤ教へも影響を与えた。ユダヤ教を母体としたキリスト教もこれらを継承しているといわれる。さらに、ペルシャ高原東部では大乗仏教の伝播にともない弥勒菩薩への信仰と結びつき、マニ教もまたゾロアスター教の影響を強く受けた。イスラームもまたマニ教と並んで、ユダヤ教やキリスト教を通じてゾロアスター教の影響も受けており、イスラームの啓典『クルアーン』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。他宗教への影響と同様に、同時代の政治に対してゾロアスター教の影響がどれほどであったかについても、研究者によって意見が分かれている。古代にあっては一般に、政治と宗教はたがいに密接な関連性を有していたため、他宗教に対する影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。歴代王朝の下にあってゾロアスター教は常に「国教」のような役割をになったと考える研究者もいるが、見解は統一されていない。アケメネス朝ペルシア(紀元前550年-紀元前330年)の歴代の大王たちが、ザラスシュトラの教え(ゾロアスター教)に帰依していたとする根拠には以下のものがある。これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。さらに、このようなことから、ゾロアスター教がアケメネス朝ペルシアの「国教」であると断定することには慎重でなくてはならない。ただ、初代の王であるキュロス大王が「ユダヤ人のバビロン捕囚からの解放者」と見なされるように、アケメネス朝ペルシアは、異民族の宗教に対して寛容な姿勢を示した。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝の「国教」であったとしても「支配者の宗教」という意味に限定される。アケメネス朝では、帝国に帰属する多様な諸民族のそれぞれの宗教に対しては一定の自由が保障されており、アケメネス朝支配下のユダヤ人は独自の「シンクレティズム」的宗教思想を育むことが可能であったと考えられるのである。なお、同時代のギリシャの歴史家ヘロドトスは、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人は偶像をはじめ、神殿や祭壇を建てるという風習をもたない」と記している。しかし、古代メソポタミアにおけるイシュタル信仰がペルシアにも影響してアナーヒター信仰へと同一視されるようになったのも、アケメネス朝の時代である。アケメネス朝期には、アナーヒターの偶像を置いた神殿が築かれる一方、それまで竈の火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシャ人も、メソポタミアの偶像と神殿をともなう信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。やがて、こうした火や建物が神聖視されるのである。マケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)の東方大遠征によってアケメネス朝は滅び、アレクサンドロスのディアドコイ(後継者)セレウコス1世によるギリシャ人王朝がシリアからメソポタミア、ペルシアにかけて成立した。これがセレウコス朝(紀元前312年-紀元前63年)である。これにより、当時、パレスティナからメソポタミア、イランにかけて「ヘレニズム」の影響がおよんだ。ギリシア文化はインドにまでおよび、逆にインド文化も地中海世界に流れ込んだ。このような文化的シンクレティズムの時代にユダヤ教は新しい神学理論を生み出した。後のグノーシス主義や洗礼教団の起源となる「救済者」(メシア)の教理が流布されたのである。そこから、ミトラス教(ミトラ教)や後期ユダヤ教、キリスト教につながる一神教の原型がかたちづくられた。ゾロアスター教そのものは、元来は寺院や偶像崇拝を認めなかったが、ギリシア文明やインド文明の影響で受容するように変化した。紀元前3世紀、セレウコス朝シリアは大きく後退し、アルサケス朝によってイラン高原北東部にペルシア人帝国であるパルティア王国が建国された(紀元前247年-紀元後226年)。アルサケス朝パルティアにおいてゾロアスター教の公式教義がほぼ確定したと考えられており、『アヴェスター』が聖典として文書化され、これは、古来の伝統を記録する思潮と連動していた。ただし、この時期の宗教が「ゾロアスター教」と称しうるものであったかについては、なおも見解が分かれる。パルティアは史料が乏しいため、隣国のアルメニア王国の史料で推測すると、パルティアでは「契約」の神ミスラ(上述)が重視されたと考えられ、パルティア王国の宗教はゾロアスター教というよりは「ミスラ教」と称すべきものに変質した可能性がある。パルティアを倒したサーサーン朝(226年-651年)は従来の宗教政策を一変させ、ゾロアスター教を正式に「国教」と定め、儀礼や教義を統一させた。その時、異端とされた資料は全て破棄された。他宗教も公式に禁止された。サーサーン朝は、その支配の正統性をアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教に求めた。そして非イラン的な異邦人の王朝アルサケス朝を倒して伝統的信仰を復興したのだと主張した。実際にはパルティア時代の大貴族の多くがサーサーン朝時代にも大きな力を持ち続け、サーサーン朝の政治機構や文化、社会は多くの点でパルティア王国を継承したものであったが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を残った。サーサーン朝の建国者アルダシール1世に仕えた祭司長タンサールの元でゾロアスター教は体系化され、正典と統一的な教会組織が形成されたといわれている。サーサーン朝期においては、諸王が発行する貨幣の裏面に拝火壇が刻印されるようになり、ゾロアスター教が世俗支配のうえでも重要な役割をになうようになったものと推測される。3世紀前葉に活躍した第2代シャープール1世は衰退期に入ったローマ帝国としばしば闘争し、サーサーン朝優位のもとで王権を盤石なものにしていった。シャープール1世以降3代の王のもとで権勢をふるった祭司長カルティール(キルディール)は、ゾロアスター教の国教化に重要な役割を果たし、諸州に多くの聖火をともしたが、同時に新興のマニ教を異端として退け、シャープール在世時代には重用された教祖のマニを処刑するとともに仏教、ユダヤ教、キリスト教を弾圧した。『アヴェスター』の文書化はサーサーン朝成立後、半世紀以上経過した3世紀半ばに完成している。ただし、サーサーン朝の諸王は、みずからの信仰を「マズダー信仰」ないし「よき信仰(ベフ・ディン)」と称し、少なくとも王碑文においてはザラスシュトラ(ゾロアスター)の名は記されない。この時代、東方に対しては隊商などペルシア商人の活発な活動によって中央アジアや中国へのゾロアスター教の伝播がなされ、一方、西方に対してはローマなどをはじめとする地中海世界との交流や抗争によって教義などの面でたがいの影響を受けたと考えられる。なお、この時代には使用される言語は「中世ペルシア語」に変質しており、「古代ペルシア語」で記述されている『アヴェスター』の「ガーサー」部分は当時すでに解読困難になっていたと考えられる。サーサーン朝はホスロー1世の時代に絶頂を迎えるが、建国後約400年にして、アラビア半島のメッカの商人ムハンマドによるイスラームの開教を迎える。アラブ族の民族宗教として始まったイスラム教は、しかし瞬く間に周縁諸地域に布教され、イスラム帝国の成立と拡大によって世界宗教の偉容を備える。サーサーン朝はイスラム帝国の前に滅亡した。アラブ族はペルシアを軍事的に征服したが、古くから文明を発展させてきたペルシアは官僚や学者としてこれを支え、むしろイスラム帝国を内部から文化的に征服したとも評される。イスラム帝国のもと、ペルシアの文化は再度開花した。イスラム帝国の歴史学者や知識人は、帝国の領域に含まれる土地の宗教や文化慣習を詳細な記録に残した。中世のメソポタミアやイランにおけるゾロアスター教、マニ教、ミトラス教などに関する情報は、ムスリム(イスラーム教徒)知識人たちの記録によるところが大きい。しかし、『デーンカルド』(宗教総覧)などのパフラヴィー語(中世ペルシア語)文献が伝えるゾロアスター教の姿は、『アヴェスター』の語るザラスシュトラの教えとは整合しない部分が多数あり、また、少数派となりながらも21世紀の今日まで生き延びているゾロアスター教信徒たちの「伝承の教え」と比較しても、齟齬が生じている。サーサーン朝の国教となる以前のゾロアスター教は普遍的な世界宗教の性格を有した。それは近隣諸地域の文化に大きな影響を与え、信徒もまた広大な範囲に広がっていた。しかし、国教化とともに、そしてイスラム帝国の勃興とともに、ゾロアスター教は偏狭な一面を備える宗教とみなされるようになり、その故地であるイランがイスラーム化してからは、新しい世界宗教として台頭したイスラームにとって代わられた。イスラーム教徒の支配下でイランのゾロアスター教徒はズィンミーとされ、厳しい迫害を受けた。ジズヤの支払いは経済的圧迫となっただけでなく、精神的にも多大な屈辱を受けた。信仰の保持は認められたもののムスリムへの布教は死罪とされ、事実上不可能となった。このこともゾロアスター教が世界宗教から血縁にもとづく民族宗教へと転落する要因となった。さらに寺院の修復や新築には特別の許可を必要とし、その他にも数々のムスリムとの差別待遇が存在した。表立った強制改宗は稀だったが、多くのゾロアスター教徒は差別と迫害を逃れるためにムスリムへの改宗を余儀なくされたのである。近代に至り、イラン社会も世俗化の流れの中でジズヤが廃止され、ようやくムスリムとは法的に対等の権利を得るようになった。サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインド西海岸のグジャラート地方に退避する集団があった。の伝承では、ホラーサーンのから、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のにたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたといわれている。インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。かれらはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった。近代以前からゾロアスター教が信仰されていた地域は、以下の通りである。近代以降、多くのパールシー教徒が英語圏の各地に、イラン本国のゾロアスター教徒がドイツに移民として移住したことにより、信者の分布地域は拡大していった。イランのゾロアスター教は、イスラム化の進展によって少数派に転落したが、今日でも小規模ではあるものの信徒の共同体が残存し、現代ペルシア語で「ゾロアスターの教え,ディーネ・ザルドゥシュト()」と呼ばれている。イラン中央部のヤズド、南東部のケルマン地区を中心に数万人の信者が存在している。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒だとされる。ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火寺院は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。ダフメ(daχmah いわゆる「沈黙の塔」)による鳥葬は、1930年代にパフラヴィー朝のレザー・シャーにより禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在では活用されておらず、観光施設として残されるにとどまる。近代化の進展により、ムスリムと同等の法的権利を獲得したゾロアスター教徒であったが、イランイスラーム革命により再び隷属的地位におかれることとなった。イランにおいては、ゾロアスター教の聖地に少数の共同体が存続し、21世紀の今日まで細々と教えの伝統を継承している。とはいえ、かつての世界宗教としてのゾロアスター教の姿はイスラームによる厳しい迫害を潜り抜けた今日の宗教共同体には見ることができず、ゾロアスター教は信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと、逆に後退し衰退してしまった。現在、ゾロアスター教では、信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州のムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖ザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。ゾロアスター教は、インドでは、ペルシャ人を意味する「パールシー」と呼ばれ、パールシー同士だけで婚姻し、周囲とは異なるパールシー共同体を形成している。数としては少ないが商業や貿易、知的職業に就く人が多く、非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似しており、インドの二大財閥のひとつタタ・グループは、パールシーの財閥である。パールシーは同じ教徒同士の堅固な結合と相互扶助もあって、彼らの社会には生活において貧窮する者がいないといわれる。寺院はマハラシュトラ州のムンバイとプネーにいくつかあり、ゾロアスター教徒のコミュニティを作っている。寺院にはゾロアスター教徒のみが入る事が出来、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての寺院にあり、ペルシャから運ばれた炎から分けられたものである。寺院内には偶像はなく、炎に礼拝する。インド国内のゾロアスター教徒のほとんどはムンバイとプネーに在住している。またグジャラート州のアフマダーバードやスーラトにも寺院があり、周辺に住む信者により運営されている。一方、パキスタン(人口1億3,000万人)のゾロアスター教徒は5,000人で、主にカラチ一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。中国への伝来したのは、5世紀から6世紀にかけての頃とされている。交易活動のために多数のイラン人がトルキスタンから現在の甘粛省を経て中国へわたり、そのことにより、当時、東西に分裂していた華北の北周や北斉に広まったという。信者は相当数いたものと思われ、唐代には「祆教(けんきょう)」と称された。教団が存在し、その取締り役として「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」がいたというが、その意味の詳細は不明である。隋や唐の時代になると、ペルシア人やイラン系の西域出身者(ソグド人など)が薩宝(薩甫、薩保)は1つの官職と認められて官位が授けられ、ゾロアスター教寺院や礼拝所(祆祠)の管理を任された。首都の長安や洛陽、あるいは敦煌や涼州などといった都市に寺院や祠が設けられ、長安には5カ所、洛陽には3カ所の祆祠(けんし)があったといわれている。しかし、ゾロアスター教徒は中国においてはほとんど伝道活動をおこなわなかったといわれる。唐においては、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教とあわせて三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市長安を中心に多くの信者を有したが、武宗の廃仏(会昌の廃仏)のときに、仏教とともに三夷教も弾圧を受け、以後は衰退していった。また、西北部に居住するトルコ族の国ウイグル(回鶻、現在の新疆ウイグル自治区)では、マニ教とともにゾロアスター教も広く信仰されたが、11世紀から13世紀にかけての西域はイスラーム化が進行した。中国における祆教の信者は、多くの場合ペルシア人や西域出身者であったが、当初は隊商の商人が多数を占め、のちにはサーサーン朝からの亡命者などが加わったものと思われる。祆教は、14世紀ころまで開封や鎮江などに残っていたと記録されているが、その後の消息はつかめていない。なお、唐代から元代にかけて対外貿易港だった福建省泉州市の郊外には波斯荘という村があり、現在でもペルシア人の末裔が暮らしているという。彼らは現在、漢族に同化し、言語・形質面ではこれと変わらないがイスラームを奉じており、回族として認定されている。彼らの宗教儀式のなかはゾロアスター教の名残がみられるともいわれている。19世紀後半から20世紀前半にかけては上海や広州などにインド亜大陸から渡来したパールシーの商人が、租界を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも香港には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、コーズウェイベイ(銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火寺院が、ハッピーバレー(跑馬地)に専用墓地が存在する。マカオには現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる墓地があり、香港が貿易拠点として発展する以前はパールシー商人が居留していたものと考えられる。古代日本へのゾロアスター教伝来は未確証であり、ゾロアスター教の信仰・教団・寺院が存在した事実を示すものも発見されていないが、ゾロアスター教は唐時代に中国へ来ており、また日本には吐火羅や舎衛などのペルシア人が来朝していることから、なんらかの形での伝来が考えられている。松本清張は古代史ミステリーの代表的長編『火の路』でゾロアスター教が日本に来ていたのではないかという仮説を取り入れている。イラン学者伊藤義教は、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、新義真言宗の作法やお水取りの時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している。近代の日本では、戦前からインド・ゾロアスター教徒により、神戸在住の貿易商として定住がはじまり、その子孫の人々は現在でも神戸および東京で健在である。在日も3世代目ないし4世代目となり、日本生まれの日本育ちとしてすっかり日本文化にとけ込んでいるが、国籍はインドを維持し、祭祀の際などにはムンバイに帰ってゾロアスター教の儀礼に参加している。19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主にシドニー)には3,500人の信者が在住している。
出典:wikipedia
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