三越(みつこし、英称:"Mitsukoshi")は、株式会社三越伊勢丹ホールディングス傘下の株式会社三越伊勢丹が運営する日本の百貨店。また、株式会社三越は、かつてこれを運営していた会社である。商号の「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもので、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。1935年に竣工した日本橋本店は、国の重要文化財に指定されている。現在の同店のキャッチフレーズは、「飾る日も 飾らない日も 三越と」、「This is Japan」。江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。1928年には「株式会社三越」となった。「三越」改称の案内の際に「デパートメントストア宣言」を行い、そのことを以て日本での百貨店の歴史が始まりすることが多い。(実際の百貨店化の動きなどの日本の百貨店の始まりについての詳細は日本の百貨店の歴史参照)。また三井財閥(現三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだため、「三井財閥(現三井グループ)の礎を築いた企業である」とされることも多いが、企業としての三越としてみるならば、三井の事業から呉服店部門のみを「合名会社三井呉服店」として分離したのが始まりである。2003年(平成15年)9月1日に、当時の「株式会社三越」とその子会社である「株式会社名古屋三越」「株式会社千葉三越」「株式会社鹿児島三越」「株式会社福岡三越」の百貨店5社が新設合併し、新「株式会社三越」が設立された。売上高営業利益率は、グループ連結で1.09%、百貨店事業単独で0.799%と百貨店業界の中でも不振が続いていたため、2008年9月に百貨店4店舗・小売店2店舗の閉鎖を発表し、店舗の整理を始めた。また、経営統合後の再編方針により、2010年4月1日付で関東以外の店舗を分離した。残った店舗については、2011年4月1日に伊勢丹と合併して発足した(存続会社は三越)「株式会社三越伊勢丹」の運営となった。また、同日には、札幌丸井今井と札幌三越の両社も統合し(存続会社は札幌丸井今井)、「株式会社札幌丸井三越」が発足している。三井家(三井財閥)の元祖である三井高利によって1673年(延宝元年)江戸本町一丁目の借店(かりだな)に「越後屋三井八郎右衛門」を創業。1683年(天和3年)には、駿河町(現在の日本橋三越本店所在地)へさらに営業を拡大させ移転。同時に両替店を開設し、この両替店は現在の「三井住友銀行」へと発展することになる。そして駿河町に店を構えると江戸中に札(広告)を配り、下記のような当時では画期的な商法を次々と打ち出し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。呉服店から百貨店への移行期の三越の広告は、時代の最先端なものとして広告史上忘れてはならないものとして語り継がれている。大丸のディオール・サロンに対抗して、三越もパリのオートクチュール・メゾンと提携した。1970年、日本初の通販番組フジテレビの「東京ホームジョッキー」(運営はディノス。1972年から「リビング11」に改称)開始。この番組は1983年に終了するが、スタッフ、キャストがテレビ東京で、三越一社提供番組「レディス4」を開始することになった。同番組は2012年から「L4 YOU!」と改題している。近年L4 YOU!紹介商品はインターネットでも注文ができるようになった。 当初は全国ネットだったが、三越の小型店店舗撤退とリンクして放送を打ち切った地域もある。この番組の他、ミニ番組「三越テレショップ」もあったが、こちらは2015年9月30日をもって全局終了した。最終回を放送したテレビ局は以下の通り。オンライン・ショッピングは、三越と伊勢丹(I On Line)が別々にあり、提携サイトとしてティファニーのサイトも独立してある。三越と大塚家具は、商品開発やホテルの内装を手掛ける建装事業などで、協力する方向性を打ち出した。その手始めとして、年間20億円の赤字を出していた新宿店南館を1999年7月に閉館し、同年9月10日「IDC大塚家具新宿ショールーム」を賃貸入居させた。その際、三越が大塚家具にお帳場客(上得意客)を紹介し、その客が大塚家具で家具を購入すれば、紹介手数料を受けるという契約も結んだ。ただし、この紹介制度は一定期間しか有効ではない。また、大塚家具は会員制を取っているので、一度目は「三越の紹介」扱いだったとしても、次からは「大塚家具」会員扱いになるため 紹介手数料は入らなくなる。協調出店は、吉祥寺店や多摩センター店でも試みられたが、あまり芳しい実績とはならず、吉祥寺店は両社とも撤退、多摩センター店は大塚家具が立川高島屋への移転という形で終了している。現在は新宿店南館で家賃収入を得るだけの関係だが、赤字店舗をそのまま抱えるよりは良いという状況になっている。2000年より「ジャイアンツフェスタ」を実施している。「読売ジャイアンツ」の商標を使用してのセールには、読売新聞社への商標使用の許諾料を支払う契約に基づいており、期間中はおたのしみ袋やジャイアンツグッズの販売する権利を得ている。また、優勝パレードも日本橋本店前が起点で、銀座店を経由して銀座8丁目 博品館前までとなっており、開催に当たっては日本テレビなどで告知するため、当日多くのファンが集り、売上に貢献している。従来、巨人軍優勝セール実施店は、そごうと相場が決まっていた。これは、そごう東京店が1957年から有楽町の読売会館に入居していたためだが、同社が2000年に経営破綻し読売会館から撤退。読売新聞社が代わりの協賛企業を募集した結果、三越が引き継ぐことになったもの。その縁で三越は読売新聞社からプランタン銀座の株式の30%の譲渡を受けることにもなった。プランタン銀座も読売新聞社が筆頭株主で、読売銀座ビルに入居しているので 「ジャイアンツセール」を実施する。三越の実施店舗は、日本橋本店、銀座店の他、全国展開で、小型店(ギフトショップ)や海外店、提携店の沖縄三越まで含まれている。ただし、名古屋三越、広島三越等、他球団のホームにある店舗では他の催しに差し替えられることもある。広島三越は広島東洋カープの優勝セールを2016年に実施している。2008年「三越伊勢丹ホールディングス」設立以降、実施店は伊勢丹直営店にも拡大した(静岡や関西では実施していない)。なお、協賛企業は三越伊勢丹だけではない(後述)。ビックカメラは、そごう撤退後の2001年から読売会館に入居したため、2002年からセールを実施(関東・甲信越地区限定)。セブン&アイ・ホールディングスはスーパーのイトーヨーカ堂及びコンビニのセブン-イレブン(一部の店舗を除く)でも2005年から実施しているが、百貨店のそごう・西武では実施していない(現在のそごう・西武と西武鉄道には資本関係が全くないが西武百貨店が埼玉西武ライオンズのスポンサーのためライオンズセールが通例となっている。またイトーヨーカ堂とセブン-イレブンはジャイアンツとライオンズの両方のセールを実施している他、地方の店舗では地元球団の優勝セールを別途実施している)。2012年度は銀座:マロニエ ゲート(三菱地所)、栃木:福田屋百貨店、宮崎:ボンベルタ橘でもセールは開催されたが、これらの各社は、読売新聞社との直接契約で実施しているもので、三越伊勢丹と提携関係があるからではない。日本橋三越の屋上には、三井家の守り神である三囲神社が祀られている。2008年に高級観光バス「三越伊勢丹プレミアムクルーザー」を導入、三越伊勢丹旅行(デビュー当時は三越トラベルセンター)主催の旅行などで使用する。この車両は2007年に開催された東京モーターショーで日野自動車が展示した参考出品車、セレガプレミアムを営業に供しているものである。個別にテレビモニターも備えた革張りのリクライニングシートを備え、前後5列・横2席、乗客定員わずか10名、さらに後部にはトイレ・洗面所も備える、贅沢な造りの車である。実際の車両管理・運行は東京ヤサカ観光バスが担当、ナンバープレートは希望ナンバーで「三越」である32-54を取得している。好評のため2012年にも追加で導入され、こちらはケイエム観光バスが担当する。2009年には通常の2-2レイアウトを採用する「三越伊勢丹グランドクルーザー」も登場、東京ヤサカ観光バスとアイビーエスが担当する。三越では1910年(明治43年)ころから、店章や新館完成予想図、支店・分店や取り扱い商品などをあしらった包装紙を使用してきた。百貨店の包装紙は、どこも地味なもので紙質も良いものではなかった。そこで1950年(昭和25年)に「クリスマス用に明るい包装紙を」と猪熊弦一郎にデザインを依頼して誕生したのが、現在の包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋である。当時、三越の社員で宣伝部に所属していたやなせたかしが猪熊から作品を受け取り、社へ持ち帰って「mitsukoshi」のレタリングを入れ完成した。当時、破格の報酬でも話題となった。この画期的な包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋は大変好評となり、翌年の中元からは三越全店で使用されるようになった。紙袋は2008年(平成20年)に伊勢丹との経営統合を機にデザインが変更されたが、「華ひらく」は現在でも全国の三越で使用されている。1914年、日本橋本店新館の建設に当たって、日本の商業施設として初めてのエスカレーターが導入。アメリカ・オーチス社製、45m/分、20馬力(15kw)電動機式で5機設置された。初号機は木製だったため関東大震災によって焼失したが、現在は三菱電機が同スタイル(金色・丸ボディ・完全照明型)の金属製で復刻したものが使用されている。同時に、エレベーターもオーチス社のものを採用。今も、スケルトンタイプの扉でノスタルジックな雰囲気をかもし出しているが、これは日本初ではない。日本初のエレベーターは1875年王子製紙十条工場の荷物運搬用。人が乗るものとしては、1890年11月10日浅草凌雲閣(関東大震災により倒壊)。百貨店では、1911年11月の白木屋日本橋店で、運転はエレベーターボーイが行った(扉の開閉等が手動式で運転技術を必要としたため)。またエレベーターガールを最初に採用したのは1929年の松坂屋上野店だった。エレベーターの技術革新と人件費削減等の理由により、現在では日本橋高島屋などを除いて日本全国ほとんどの百貨店でエレベーターガールは廃止されている。日本橋三越では、今もエレベーターガールが常時配置されているが、6台のうち、中央2台のみと限定的な運用となっている。 比較的遅くまで残っていた名古屋三越栄店でも2009年10月でエレベーターガールは廃止された。一方、高松三越では1996年に廃止したが、2011年3月「開店80周年記念」の期間限定企画として復活した。1914年に本店玄関に設置されたライオン像は、関東大震災や戦火を逃れ現在も日本橋本店正面玄関に設置されている。ロンドンのトラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したもので青銅製。完成まで3年の歳月を要し、イギリスの彫刻界でも相当な話題となる。なお、全国各地の三越主要店舗にも日本橋本店のものを模したライオン像が設置されている。誰も見ていないときに受験生がライオン像にまたがる、または触ると志望校に合格するという験かつぎも知られている。閉店した店舗の像は倉庫に保管されているが、池袋三越(2009年閉店)の像は、三越と縁の深い三囲神社に奉納された。他に2015年日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈された。ライオンは日体大のシンボルマスコットである。1930年(昭和5年)日本橋三越本店の大食堂に、子供の好きなメニューをひとつの皿に盛った「御子様洋食」が登場した。そのメニューは富士山に型どったライスにイチゴジャムと卵のサンドイッチ、スパゲティー、ハム、コロッケ、金平糖であった。御子様ランチの象徴でもある三越の旗を立てたのも日本橋三越本店の大食堂が最初であった。現在でも日本橋三越本店の新館5階にある大食堂「ランドマーク」で「お子様ランチ」として提供されている。また、日本橋三越本店が発祥のため、三越「ランドマーク」では年齢制限は設定されておらず、誰でも注文することができる。現在、日本橋三越本店の中央ホール2階バルコニーにあるパイプオルガンは、1930年(昭和5年)に米国マイテー・ウェルリッツァー社製の最新式を輸入し、7階ギャラリーに設置されていたものである。電力によって奏する大仕掛けなもので、メインとソロの2種からなり、全体の間口は8.2m。日本で唯一現存する演奏可能な昭和初期製造のシアターオルガンでもあり、貴重な歴史資料として2009年(平成21年)には中央区民有形文化財に登録された。このパイプオルガンは、カトリック教会に設置されているものとは異なり、主に無声映画や演劇の伴奏などに使用された『シアターオルガン』という種類に属するもので、ポピュラー音楽でもクラシック音楽でも幅広いジャンルの音楽を弾くことが出来るのを特徴としている。1930年当時の金額で350,000米ドル、今の貨幣価値に換算すると約2億円である。まだ本格的なパイプオルガンが、日本に数台しかない時代だったため大変な評判となり、社団法人日本放送協会では、演奏を聞かせるラジオのレギュラー番組が組まれ、日本放送協会と三越の間には専用回線まで引かれたという。1935年(昭和10年)の本館全館完成時に、現在の中央ホール2階バルコニーに移設された。パイプボックスには、パイプ以外の音源も装備されており、チューブラーベルや鈴、ウッドブロック、大太鼓や小太鼓、さらには鳥の声なども出る。オルガンやパイプには、元々美しい金属装飾が施されていたが、大東亜戦争中に供出されてしまった。現在でも金曜日、土曜日、日曜日の午前10時・正午・午後3時の3回、オルガン奏者による生演奏が行われ、その荘重な調べは、日本橋三越本店独自の雰囲気を創る上で、欠くことのできない重要な役割を果たしている。日本橋三越本店のパイプオルガンで、開店時に「お江戸日本橋」が演奏されており、三越のテーマ曲のような存在となっている。かつては同曲のオーケストラによるアレンジ版が、テレビCMなどで流れていたこともある。このオーケストラ版は1951年12月31日、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で開始された番組『三越文学サロン』の宣伝用に制作されたもので、地方では1954年7月13日より、聴取エリア内に仙台店がある東北放送ラジオの『朝の百貨店案内』の中で流され、それ以来1989年12月末までの約35年間、同番組内で流れ続けた。三越広報資料室によると、これは同曲のテレビ・ラジオにおける使用期間としては最長記録である。2008年2月期・店別売上高も付記。2010年度から直営は関東だけになった。さらに2011年4月1日には、株式会社三越が株式会社伊勢丹を吸収合併して発足した、「株式会社三越伊勢丹」の運営になった。2013年度から中央(三越伊勢丹HDS)による企画・統制に変更された。これは、都市部では生活行動圏が狭くなり、一方地方部では百貨店空白エリアが広がった現状に対応して市場開拓を行うためで、情報・ノウハウの共有化を図る狙いがある。中期目標では、店舗面積50〜200坪クラスの店を新規出店数150〜200店、売上高500億円規模、営業利益25億円以上を目指している。店舗のタイプは3種類で外商拠点を兼ねた従来型のサテライト=三越○○、中分類切り出し型=イセタンミラー、アウトレット店などとなっている。HDS傘下の三越系列本来、日本の百貨店はチェーンストアとー異なり、本部集中仕入はせず、各店舗が独立して運営する形態のものだった。1970年代、総合スーパーの台頭に対抗し、三越も中央仕入機構「三越ジョイントバイインググループ」を主催、一般向けには単純に「三越グループ」もしくは「三越提携店」と呼ばれていた。業務提携内容は以下の3本を柱としていた。三越の系列店政策は、同じ市場で競合しないための紳氏協定的(他百貨店グループと重複加盟をしない排他的)な要素が強く、三越は札幌、仙台、高松、松山には古くから直営店を出店していたため、これらの都市を本拠とする地方百貨店の参加はなかった。戦略的拠点と位置づけられた一部の地域では、資本を注入し直営化を図った例もあるが、基本的には加盟店の自立を支援し、従来からの「のれん」を残したケースの方が多い。このスタンスは、ネットワーク拡大を優先しM&Aを仕掛けたダイエーやセゾングループとは大きく異なるものだった。しかし、1990年代には日本百貨店協会の「全国百貨店共通商品券」が登場し、協会加盟百貨店であればどこでも商品券が使えるようになり、グループに加盟する意義の一角が崩れていくことになる。また、三越自身が1995年に大丸と上記にあげた3本の業務提携を行ったり、2000年には高島屋と物流・情報システムや用度品の共同購入を行ったり(現在はどちらも提携解消)したことによりグループの再編は加速した。2008年の三越・伊勢丹の経営統合により、伊勢丹が中心になって主催してきたA・D・Oに加盟する企業もあったが、「三越提携(の地方)百貨店」という概念は「沖縄三越」以外に存在しなくなり、呼称も使用されなくなった。1970年 - 1980年代の三越グループ加盟店は、以下の各店。
出典:wikipedia
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