LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

古鷹 (重巡洋艦)

古鷹(ふるたか)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。古鷹型重巡洋艦(一等巡洋艦古鷹型)の1番艦。その艦名は江田島の海軍兵学校そばにある古鷹山による。平賀譲造船官が手掛けた代表艦であり、世界の注目をあびた20cm砲搭載型巡洋艦である。列強の15cm砲搭載軽巡洋艦を凌駕する巡洋艦として、20cm砲6門を搭載し相応の防御力を有した8,000トン級巡洋艦として1923年度の計画で建造された(起工は1922年暮)。その背景には、帝国海軍の巡洋艦の主力である5,500t型巡洋艦が仮想敵であるアメリカ海軍のオマハ級軽巡洋艦に比べ大きく劣っていた事が挙げられる。設計者は八八艦隊計画で有名な平賀譲造船官。実験艦としての性格が強かった軽巡洋艦夕張を拡大・改良したものである。単装の20cm砲(8inchではなく20cm)を前甲板と後甲板の中心線上に3基ずつ並べ、煙突を巨大化し、航行性を高めるために波型の甲板を採用した事に特徴がある。なお、この砲は準砲塔式とも言える人力装填のものを採用しており、竣工時の古鷹型巡洋艦(加古級巡洋艦)ではこの人力装填による給弾の遅れが問題となった。準同型艦の青葉型重巡洋艦では20cm連装砲塔3基6門を搭載しており、これが建造当初の古鷹型(加古級)と青葉型の識別点となった。同型の加古と共に1936~39年の改装で主砲を20.3cm連装砲3基に変更し、艦橋装置の近代化や、水雷兵装の新式化が行われている。砲撃力、速力、水雷戦闘能力共に太平洋戦争開戦時の水準を満たした強力な中型巡洋艦となった。上記の通り当初はオマハ型を凌駕する巡洋艦として計画された。ワシントン海軍軍縮条約では巡洋艦は排水量10,000t以下、砲口径5inch以上8inch以下と定義付けられたが、保有制限はなかった。その為、当初の計画では14cm砲搭載の予定を20cm単装砲6基6門に変更された。その後、ロンドン海軍軍縮条約によって排水量に関わりなく重巡洋艦とされて保有制限を受けたため、搭載砲塔が条約上限の20.3cm(8inch)連装砲に換装された。大正時代の帝国海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷)。軍艦「古鷹」は三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で建造された。1922年(大正11年)8月11日、建造予定の一等巡洋艦2隻に、1番艦『衣笠』と2番艦『古鷹』の艦名が与えられる。10月9日、既に二等巡洋艦(川内型軽巡洋艦)としては建造中止命令が出ていた『加古』の艦名を、川崎造船所で建造予定の一等巡洋艦に流用する事が正式に決まる。これをもって『加古』は二等巡洋艦から一等巡洋艦に艦種変更。3隻(加古、衣笠、古鷹)は同日附で一等巡洋艦に類別された。前述のように『加古』の艦名流用により一等巡洋艦1番艦の艦名は「加古」と決まり、『衣笠』の艦名は一等巡洋艦3番艦以降へ先送りされた。この変更により『衣笠』はどの造船所で建造するかも『未定』となる。神戸造船所で建造する事が正式に通達されたのは、翌年9月18日のことだった。このような曲折を経つつ、「古鷹」は三菱長崎造船所で1922年(大正11年)12月5日に起工。1925年(大正14年)2月25日、進水。5月15日、日本海軍は塩沢幸一大佐を艤装員長に任命した。6月1日、長崎造船所に艤装員事務所を設置。1926年(大正15年)3月30日、艤装員事務所を撤去。3月31日に竣工して、横須賀鎮守府籍。塩沢も制式に古鷹艦長(初代)となる。副長町田進一郎中佐。起工は姉妹艦「加古」(神戸川崎造船所)の方が早かったが(加古の起工1922年11月17日)、進水・竣工は「古鷹」の方が先だった(加古の進水1925年4月10日、竣工1926年7月20日)。このため1926年(大正15年)11月29日(内令238号)による艦艇類別等級表の改訂により、「古鷹」が同型のネームシップとなった。後日、ロンドン海軍軍縮会議の結果『ロンドン海軍軍縮条約』が1930年(昭和5年)10月2日に締結されて日本が批准すると、加古型(古鷹型)・青葉型の4隻(加古、古鷹、青葉、衣笠)は甲巡洋艦(重巡洋艦)に定義され、これにともない日本海軍の「一等巡洋艦・二等巡洋艦」の定義も変更された。1926年(大正15年)4月1日、「古鷹」は第五戦隊に編入された。5月1日、高松宮宣仁親王(海軍少尉、当時扶桑乗組)は本艦に配属される。同日附で第五戦隊より長良型軽巡洋艦3番艦「名取」が除かれた。同隊は重巡洋艦と軽巡洋艦の混成3隻(古鷹、川内、由良)となる。6月6日、第五戦隊旗艦は「川内」から「古鷹」に変更される。8月1日、竣工した「加古」が第五戦隊に加わる。それにともない、8月5日より同戦隊旗艦は「古鷹」から「加古」に変更された。9月25日、第五戦隊(重巡《加古、古鷹》、軽巡《川内、由良》)は長崎造船所でおこなわれた「青葉」の進水式に参加、古鷹乗組の親王が皇族として立ち会う。正午過ぎ、青葉進水式は無事に終了した。12月1日、親王は水雷学校入学を命じられ、本艦から退艦した。翌年、水雷学校と海軍砲術学校を卒業した宣仁親王は7月29日附で戦艦「比叡」配属となり、目の前の「古鷹」を懐かしんでいる。同日附で第五戦隊は再編され、古鷹型重巡2隻(古鷹、加古)、川内型軽巡洋艦2隻(神通、那珂)となる。同日附で古鷹艦長も菊井信義大佐に交代。砲術長として角田覚治少佐(当時、第一水雷戦隊参謀。後日、太平洋戦争中第四航空戦隊司令官、第二航空戦隊司令官等を歴任)が着任した。1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖で行われた第八回基本演習(夜間無灯火演習)において、第五戦隊(第1小隊《加古、古鷹》、第2小隊《神通、那珂》)および第二水雷戦隊(旗艦「夕張」)は夜間雷撃訓練を実施することになった。乙軍は、加藤寛治連合艦隊司令長官率いる長門、陸奥以下戦艦部隊を仮想敵(甲軍)にみたてて接近中、戦艦伊勢、日向・第六戦隊(由良、龍田)等から照射を受けた五戦隊第2小隊(神通、那珂)は距離をとるべく右に転舵。すると2隻は後続していた第1小隊(加古、古鷹)および第26駆逐隊、第27駆逐隊(菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ込んだ。「神通」と第27駆逐隊2番艦「蕨」が衝突(蕨は沈没)、それを避けようとして左に転舵した「那珂」は、同駆逐隊3番艦葦と衝突、両艦とも大破する。古鷹以下各艦は協力して沈没艦と損傷艦の救援に従事した。その後、2隻(比叡、古鷹)は自力航行可能だった「那珂」を護衛して舞鶴へ移動。「加古」は戦艦「金剛」に曳航される「神通」を護衛し、「葦」は軽巡「阿武隈」に曳航され、それぞれ舞鶴へむかった。9月5日、「神通」は第五戦隊から除籍。12月26日、事件当時の神通艦長水城圭次大佐は自決した。これを美保関事件という。「那珂」乗艦中に本事件に遭遇した博義王は第五戦隊司令部附で「古鷹」に移動した。修理を要する軽巡2隻(神通、那珂)は第五戦隊から除籍され、竣工した青葉型重巡2隻(青葉、衣笠)が第五戦隊に編入、1927年(昭和2年)12月1日の再編で、同隊は重巡4隻(衣笠、青葉、加古、古鷹)を揃えた。同年11月15日、古鷹艦長は菊井大佐から有馬寛大佐(軽巡洋艦「木曾」艦長)に交代。角田砲術長も第二艦隊参謀を命じられ、退艦した。1928年(昭和3年)12月10日、有馬寛(古鷹艦長)は舞鶴要港部参謀長を命じられて退艦。後任の古鷹艦長は大西次郎大佐(当時、水上機母艦「能登呂」艦長)。第五戦隊(加古、古鷹、衣笠、青葉)の編制は変わらない。1929年(昭和4年)11月7日附(内令255号)で「古鷹」は第五戦隊から除籍。同戦隊は3隻(加古、衣笠、青葉)になった。予備艦に指定される。11月30日、大西次郎(古鷹艦長)は妙高型重巡洋艦2番艦「那智」艦長へ転任。日本海軍は田尻敏郎大佐(当時、長良型軽巡洋艦5番艦「鬼怒」艦長)に対し、「古鷹」および装甲巡洋艦「八雲」艦長兼務を命じた。1930年(昭和5年)8月1日、佐藤三郎大佐が八雲艦長に任命されたことで、田尻(古鷹・八雲艦長)は兼務を解かれた。12月1日、第12駆逐隊司令町田進一郎大佐(古鷹竣工時の副長。以後、軽巡「神通」艦長等を歴任)は、古鷹艦長を命じられる。同日附で行われた再編で、第五戦隊は重巡2隻(青葉、古鷹)となった。1931年(昭和6年)12月1日、町田(古鷹艦長)は扶桑型戦艦1番艦「扶桑」艦長に補職されて退艦、後任の古鷹艦長は神山忠大佐となる。同日附でおこなわれた改編で、第五戦隊は当分編制しないことになった。本艦は予備艦となる。1932年(昭和7年)2月1日、横須賀鎮守府から呉鎮守府籍へ転籍。12月1日、古鷹艦長は睦月型駆逐艦8番艦「長月」初代艦長等を歴任した高山忠三大佐(当事、第12駆逐隊司令)に交代する。第五戦隊は姉妹艦3隻(衣笠、加古、青葉)で再編されたが、本艦は加わっていない。1933年(昭和8年)5月20日、第五戦隊にかわり、第六戦隊(衣笠、加古、青葉)が編成される。11月15日、古鷹艦長は高山大佐から、軽巡洋艦「夕張」艦長斎藤二朗大佐(睦月型駆逐艦9番艦「菊月」初代駆逐艦長等を歴任)に交代。同日附で実施された改編で、本艦は第六戦隊に編入。第六戦隊は重巡3隻(古鷹、衣笠、青葉)となった。1934年(昭和9年)6月29日、第六戦隊(古鷹、衣笠、青葉)は連合艦隊の演習に参加、第二水雷戦隊麾下駆逐艦2隻(深雪、電)の衝突及び「深雪」沈没に遭遇した。11月15日、球磨型軽巡洋艦5番艦「木曾」艦長角田覚治大佐(昭和2年当時の古鷹砲術長)は、古鷹艦長に補職される(斎藤は軍令部出仕、翌年7月から長門型戦艦1番艦「長門」艦長等を歴任)。角田の後任の木曾艦長は水野準一大佐(前職「鳴戸」特務艦長)。第六戦隊は引き続き3隻(古鷹、衣笠、青葉)で行動する。1935年(昭和10年)11月15日、角田覚治(古鷹艦長)は出雲型装甲巡洋艦2番艦「磐手」艦長へ転任。軽巡「木曾」艦長水野准一大佐が古鷹艦長となる。艦隊の編制替により重巡2隻(衣笠、青葉)で第七戦隊が編制される。本艦は予備艦に指定された。1936年(昭和11年)2月15日、「古鷹」は第七戦隊に編入。当時、本艦は古賀峯一少将を司令官として第七戦隊(青葉《旗艦》、衣笠、古鷹)を編制していた。姉妹艦「加古」は近代化改修に着手していた(7月から12月まで)。8月14日午前4時、「青葉」と「衣笠」は夜間航行中に衝突事故を起こした。訓練終了後、七戦隊(青葉、衣笠、古鷹)の単縦陣は速度を6ノットに減速することになったが、「衣笠」は「青葉」の信号を見落とし9ノットで直進、誰一人気付かないまま「青葉」の艦尾に衝突した。両艦とも深刻な損傷はなかったが、衣笠艦首は潰れてしまった。このため同年度では無事故で演習でも優秀な成績をおさめた3番艦「古鷹」の評価が高まったという。12月1日、水野(古鷹艦長)は鎮海要港部参謀長となり退艦(後日、水野は空母「赤城」艦長等を歴任)。日本海軍は、剣埼型潜水母艦2隻(剣埼《祥鳳》、高崎《瑞鳳》)艤装員長を兼務していた大塚幹大佐を古鷹艦長に任命した。翌年度の本艦は予備艦に指定。1937年(昭和12年)3月16日、「古鷹」は呉海軍工廠で近代化改修工事に着手する。12月1日、友成佐市郎大佐(当時長良型軽巡洋艦4番艦「由良」艦長)は古鷹艦長に補職される(後日、大塚は戦艦「長門」艦長として戦死)。1938年(昭和13年)4月20日、友成(古鷹艦長)は妙高型重巡洋艦4番艦「羽黒」艦長へ転任。前年12月1日まで姉妹艦「加古」艦長だった岡村政夫大佐が、新たな古鷹艦長に補職される。12月15日、岡村(古鷹艦長)は第二港湾部部長を命じられて退艦。吹雪型駆逐艦「朧」初代艦長等を歴任した伊藤皎大佐(当時、第11駆逐隊司令)を古鷹艦長に任命した。1939年(昭和14年)4月30日、「古鷹」の近代化改修は終了。しばらく各種試験に従事する。5月1日、緒方真記大佐(加古艦長)が磐手艦長に転任した事にともない、伊藤大佐が重巡2隻(古鷹、加古)艦長を兼務する。7月1日、長良型軽巡洋艦1番艦「長良」艦長江戸兵太郎大佐が加古艦長に任命され、伊藤大佐は艦長兼務を解かれた。11月15日、伊藤(古鷹艦長)は第14砲艦隊司令へ転任、白石萬隆大佐が新たな古鷹艦長となる。海軍砲術学校教官黛治夫中佐も古鷹副長に任命された。同日附で利根型重巡洋艦2隻(利根、筑摩)の第六戦隊は第八戦隊に改編され、第六戦隊司令官は清水光美少将から田結穣少将に交代(第八戦隊司令官は後藤英次少将)。第六戦隊は重巡2隻(加古、古鷹)となり、砲術科の黛が指導したことで本艦は戦闘訓練で抜群の成績を収めたという。1940年(昭和15年)5月2日、内閣首脳の体験航海のため横浜に入港。10月11日、紀元二千六百年特別観艦式で昭和天皇は御召艦「比叡」に座乗、供奉艦は重巡洋艦3隻(先導艦《高雄》、供奉艦《加古、古鷹》)であった。同月15日、黛(古鷹副長)は横須賀鎮守府附となる。同時に館山海軍砲術学校設立準備委員に任命され、「古鷹」を去った(後日、黛は大和型戦艦1番艦「大和」副長、水上機母艦「秋津洲」艦長、重巡洋艦「利根」艦長等を歴任)。10月19日附で白石(古鷹艦長)も金剛型戦艦3番艦「霧島」艦長を命じられ、中川浩大佐(当時第24駆逐隊司令)が古鷹艦長に任命される(白石はレイテ沖海戦時の第七戦隊司令官。同戦隊に黛艦長の利根も所属)。11月15日、第六戦隊司令官は田結少将から牧田覚三郎少将に交代する。1941年(昭和16年)9月15日、第六戦隊司令官は牧田少将から第二水雷戦隊司令官五藤存知少将に交代(後任の第二水雷戦隊司令官は田中頼三少将)。五藤少将は第六戦隊旗艦を「加古」から「青葉」に変更、各艦の隊番号も変更された。11月28日、古鷹艦長は中川大佐から球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」艦長荒木傳大佐に交代する(中川は、翌年2月15日より阿賀野型軽巡洋艦1番艦「阿賀野」艤装員長、10月31日附初代艦長)。1941年(昭和16年)12月8日、第六戦隊(司令官五藤存知少将:第1小隊《青葉、加古》、第2小隊《衣笠、古鷹》)は南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦「鹿島」)の指揮下にあり、グアム島攻略作戦を支援した。続いてウェーク島の戦いに参加した。ウェーク島攻略部隊第一陣は第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将:旗艦夕張)・第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将)軽巡2隻(天龍、龍田)を基幹に上陸作戦を行おうとしたが、駆逐艦2隻(疾風、如月)を撃沈されて撃退されていたのである。第六戦隊は、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:蒼龍、飛龍)、第八戦隊(利根、筑摩)、第17駆逐隊(谷風、浦風)と共に増援部隊を編制、ウェーク島の占領を支援した。1942年(昭和17年)5月上旬、古鷹以下第六戦隊はMO攻略部隊に所属し、珊瑚海海戦に参加した。MO攻略部隊主隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)の戦力は6隻(第六戦隊(第1小隊《青葉、加古》、第2小隊《衣笠、古鷹》)、空母《祥鳳》、駆逐艦《漣》)で編制されていた。5月7日、MO攻略部隊はアメリカ軍第17任務部隊(司令官フランク・J・フレッチャー少将)の空母2隻(ヨークタウン、レキシントン)から発進した攻撃隊の空襲を受けた。MO攻略部隊主隊は「祥鳳」を中心に輪形陣を組んでいたものの、このシステムに慣れておらず、効果的な迎撃は望めなかった。集中攻撃を受けた「祥鳳」は沈没、また退避命令が出たため青葉以下第六戦隊は祥鳳脱出者の救助を中断し、沈没現場を離れた。のちに漣が祥鳳の沈没現場に戻って約200名を救助した。20時40分、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊に編入される。第2小隊は第六戦隊第1小隊(青葉、加古)と分離し、第五航空戦隊の空母2隻(瑞鶴、翔鶴)、第五戦隊(妙高、羽黒)、護衛駆逐艦(曙、潮、有明、夕暮、白露、時雨)との合流地点へ向かった。5月8日朝、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊に合流する。だが「第六戦隊ハ航空戦隊ノ後方五キロニ続行セヨ」以外の指示がなく、また空母を中心とした輪形陣を組まなかったため、各艦は単独でアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲に対処する事になった。第2小隊は「翔鶴」後方約8000m地点を航行中、空襲を受けることになる。MO機動部隊攻撃隊はレキシントンを撃沈しヨークタウンに損傷を与えたが、一方で「翔鶴」が大破した。古鷹主計長は「(空母はすぐ燃えるので)味方の母艦が攻撃を受けているときほどいやな光景はない。」と回想している。4隻(衣笠、古鷹、夕暮、潮)は戦場を離脱する「翔鶴」を一時的に護衛した。残敵掃蕩のため珊瑚海を行動したのち、6月上旬になって日本本土に戻り、整備・補修・休養に従事する(古鷹は6月5日、呉着)。だがミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失。そこでソロモン諸島防備強化の方針を打ち出す。整備・休養を終えた第六戦隊は第十八戦隊(天龍、龍田)等と共にそれぞれ南方へ進出した。本艦は7月4日、トラック泊地に到着した。1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動し、ガダルカナル島の戦いがはじまった。古鷹以下第六戦隊は外南洋部隊(指揮官三川軍一中将/第八艦隊司令長官:旗艦鳥海)に所属し、外南洋部隊指揮官(三川軍一中将)直率下の8隻(重巡《鳥海、青葉、加古、衣笠、古鷹》、軽巡《天龍、夕張》、駆逐艦《夕凪》)で挺身艦隊(挺身攻撃隊)を編制、第一次ソロモン海戦に臨んだ。ガダルカナル島への突入直前、古鷹以下挺身艦隊は水上機母艦「秋津洲」(艦長黛治夫大佐、元古鷹副長)と遭遇している。このあと8月8日深夜から9日日付変更にかけて、挺身艦隊(通称三川艦隊)は連合国軍重巡四隻を共同で撃沈している。夜間戦闘の最中、炎上した敵艦(クインシー)が三川艦隊の隊列に接近。単縦陣最後尾の「古鷹」は回避のため応戦しつつ左に転舵、このため先行艦(鳥海、青葉、加古、衣笠)と分離してしまった。敵艦と共に右舷から魚雷2本が迫ったための措置だったが、古鷹主計長によれば、荒木(古鷹艦長)は夜戦中に隊列を二分したことを以後も気にしていたという。この分離行動中、後続の軽巡2隻(天龍、夕張)は「古鷹」を発見して続行した(夕凪は分離後、単艦で戦場を離脱)。続いて鳥海隊(鳥海、青葉、加古、衣笠)は敵艦3隻を砲撃中、その向こう側に古鷹隊(古鷹、天龍、夕張)を発見、マストに掲げた白い吹き流しで古鷹隊と気付く一幕もあった。期せずして米艦隊を挟撃する陣形となり、連合軍艦隊は大敗北を喫した。記録によれば、古鷹は20cm主砲153発、12cm高射砲94発、25粍機銃147発を発射した。勝利を収めた三川艦隊は、外南洋部隊指揮官以下4隻(鳥海、天龍、夕張、夕凪)がラバウルやショートランド泊地へ向かい、第六戦隊4隻のみニューアイルランド島カビエンへ向かった。8月10日朝、姉妹艦「加古」が米潜水艦S-44の魚雷攻撃により沈没した。第六戦隊各艦はカッターボートや装載艇を降ろしてカビエンへ向かった。勝利に湧いていた第六戦隊の空気は、一転して沈痛なものになったという。加古生存者は近隣の島に上陸し、駆逐艦「卯月」や大発動艇に救助されてカビエンへ移動。同地で第六戦隊各艦に収容されたのち、給油艦石廊に乗りラバウルへ去った。8月24-25日の第二次ソロモン海戦前後における「鳥海」と第六戦隊は、ガダルカナル島揚陸を目指す輸送船団(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)掩護のためにガ島北方海域に出動する。第六戦隊は輸送船団や被弾炎上する空母「龍驤」を視認したのみで、戦局には関与しなかった。25日、ガ島ヘンダーソン飛行場より飛来したアメリカ軍機の空襲で軽巡「神通」(第二水雷戦隊旗艦)が中破、2隻(駆逐艦睦月、輸送船金龍丸)が沈没する。増援部隊指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官は駆逐艦「陽炎」(第15駆逐隊)に将旗を移し、駆逐艦2隻(海風、磯風)および輸送船2隻等と共にショートランド泊地へ避退した。輸送船によるガ島揚陸の企図は頓挫し、第二次ソロモン海戦は日本軍の敗北で終わった。8月27日夕刻、2隻(青葉、古鷹)はショートランド泊地に到着。28日には外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)の指示により第六戦隊より重巡「衣笠」が外南洋部隊増援部隊(第二水雷戦隊)に編入され、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将(旗艦川内)が増援部隊指揮官を引き継ぐまでの数日間だけ「衣笠」が第二水雷戦隊旗艦となっている。10月11日-12日、第六戦隊司令官五藤存知少将が率いる外南洋部隊支援部隊(第六戦隊《青葉、古鷹、衣笠》、第11駆逐隊第2小隊《初雪、吹雪》)はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場砲撃に向かった。第一次ソロモン海戦と比較して僚艦は少なく、「せめて加古が健在ならば」という回想も残されている。同日、トラック泊地から第三戦隊司令官栗田健男中将ひきいる第二次飛行場砲撃隊(戦艦《金剛、榛名》、第二水雷戦隊《軽巡五十鈴、第15駆逐隊、第24駆逐隊、第31駆逐隊》)および第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹)もヘンダーソン基地艦砲射撃のため出撃する。また飛行場砲撃に先行して、水上機母艦2隻(日進、千歳)、駆逐艦部隊(秋月、綾波、白雪、叢雲、朝雲、夏雲)によるガダルカナル島揚陸作戦も実施中だった。だが、第六戦隊はノーマン・スコット少将ひきいるアメリカ艦隊(重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦5)に丁字戦法によって迎撃される(サボ島沖海戦)。日本側は、アメリカ軍が水上部隊をもって反撃する可能性は極めて低いと判断していた。日進輸送隊や基地航空隊から「アメリカ艦隊出現」の報告が無いことも、第六戦隊の判断に影響を与えていたとみられる10月11日21時43分、五藤少将以下第六戦隊司令部(旗艦青葉座乗)は左舷前方に出現したアメリカ艦隊(すでに第六戦隊を補足、丁字戦法のため陣形調整中)を日進輸送隊と判断し、味方識別信号をおくりつつ接近した。敵艦隊と気づいた時には照明弾で照明されて砲撃されており、初弾が青葉艦橋を貫通して五藤司令官を含む司令部・艦首脳部を戦傷死させる。大破した「青葉」は『我青葉』を連送し、面舵に変針しつつ煙幕を張って避退した。青葉後方を進んでいた「古鷹」でも、荒木(古鷹艦長)は日進輸送隊の可能性を疑っていた。だが吊光弾を投下されて仰天。最初は取舵をとって右砲戦に備えたものの「青葉」の行動を見て面舵に転舵、続行した。古鷹主計長は、第一次ソロモン海戦での隊列分離が、サボ島沖海戦における荒木艦長の青葉追従(取舵を中止して面舵転針)判断につながったと推測している。だが煙幕に入りきれなかった「古鷹」はアメリカ艦隊の攻撃により酸素魚雷が誘爆して大火災となり、射撃目標となる。三番砲塔旋回不能、魚雷発射管破壊、機関室砲弾貫通、左舷傾斜5度、機械故障と損害が累加し、ついに航行不能となった。主に高射砲で応戦し、主砲発射弾数は40発以下だっが、第二斉射以後で敵3番艦に損害を与えたという。また「古鷹」にアメリカ艦隊が集中砲火を浴びせたため「青葉」への砲撃が少なくなり、同艦が無事に離脱できたという側面もある。2隻(衣笠、初雪)は取舵を維持したまま戦場を離脱、軽巡ボイシ、重巡ソルトレイクシティと砲撃戦を行って損傷を与えた。また米駆逐艦の同士討ちが生じた。旗艦(青葉)右前方を航行していた「吹雪」は米艦隊に距離1500mまで接近、集中砲火をあびて轟沈した。3隻(青葉、衣笠、初雪)が戦場を離脱した後も「古鷹」はしばらく海上に浮かんでいたが、水線下への被弾による浸水が進み、22時40分頃に航行不能となる。敵駆逐艦らしき艦が接近してきたが、反転して遠のく。その後、短電話のみ復旧し、救援を命じられていた駆逐艦「初雪」との連絡に成功。報告位置より西に流されており、「初雪」航海長の好判断で発見に成功したという。だが傾斜のため、接舷はできなかった。軍艦旗をおろしたのち、本艦は艦尾より沈没した。沈没時刻10月12日午前0時28分、沈没地点サボ島の310度22浬。艦長以下、生存者は駆逐艦「初雪」に救助されたが、日中の空襲を考慮したため救助活動は午前2時をもって打ち切られ、「初雪」はカッターボート2隻と円材を残して帰路についた。このあと日進隊より古鷹救援にむかった駆逐艦4隻(第9駆逐隊《朝雲、夏雲》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》)のうち、2隻(夏雲、叢雲)が日中の空襲により沈没した。「叢雲」は「白雪」による雷撃処分だった。一方、本夜戦において損害を受けた米艦隊もガダルカナル島海域から撤退し、この間隙をついて第二次挺身隊(金剛、榛名)による10月13日ガダルカナル島飛行場砲撃が実施された。健在だった「衣笠」も再出撃し、10月14日深夜に4隻(重巡《鳥海、衣笠》、駆逐艦《天霧、望月》)という編制でガ島ルンガ泊地へ突入、ヘンダーソン基地砲撃を敢行している。古鷹型重巡洋艦の設計計画当時は船体強度を維持するために船体中心線上に隔壁を設置することが多かった。「古鷹」も船体軽量化と強度の確保の面から船体中央に隔壁が設置されていた。太平洋戦争開始直前の時期には砲力や大威力の魚雷の出現により、片舷にのみ浸水し大傾斜により復原できなくなる可能性が指摘されていたが改修されることなく戦争に突入した。本艦の沈没は一説にはこの片舷浸水による大傾斜が原因になったとされる。10月16日時点での戦死33名(内士官2)、行方不明者225名(内士官16)、救助518名(内士官34)。なお、沈没艦(古鷹、吹雪)生存者の一部はアメリカ軍に救助された後にニュージーランドの収容所に送られ、そこでフェザーストン事件に遭遇している。またアメリカ軍に捕虜となった本艦および空母飛龍(ミッドウェー海戦で沈没)、戦艦霧島(第三次ソロモン海戦で沈没)生存者の一部はアメリカ軍捕虜尋問所「トレイシー」に移送された。11月10日、第六戦隊は解隊。健在だった「衣笠」は第八艦隊直属、修理を要する「青葉」は呉鎮守府部隊に編入という配備が決まった。同日附で重巡「古鷹」と空母「龍驤」(第二次ソロモン海戦で喪失)は軍艦籍より除籍された。古鷹生存者は内地へ向かう「青葉」に便乗し、呉軍港に帰投した。古鷹艦長荒木傳大佐は重巡洋艦2隻(青葉、筑摩《南太平洋海戦で大破》)艦長兼務を命じられている(後日、荒木は高雄型重巡洋艦2番艦「愛宕」沈没時艦長)。11月14日、第三次ソロモン海戦に参加した外南洋部隊(重巡《鳥海、衣笠、鈴谷、摩耶》、軽巡《五十鈴》、駆逐艦《夕雲、風雲、巻雲、朝潮》)はニュージョージア島南方でアメリカ軍機の空襲を受け、「衣笠」は沈没した。古鷹型・青葉型計4隻は「青葉」を残すのみとなった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。