松井 稼頭央(まつい かずお、本名:松井 和夫(読み同じ)、1975年10月23日 - )は、大阪府東大阪市出身のプロ野球選手。2004年にMLBのニューヨーク・メッツに移籍した、日本人初の内野手メジャーリーガー。7年間MLBでプレーし、現在は東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する。シーズン長打日本プロ野球記録保持者。妻はオスカープロモーション所属の松井美緒。小学3年生時に近所の上級生に誘われて若江ジャイアンツに入団。当時のエースは後に西武ライオンズでチームメートとなる犬伏稔昌だった。犬伏が卒業すると投手として試合に出してもらえるようになったが、チームが所属していた地区は強豪揃いであり、小学生時代は全国大会には出場できず、中学生時代も決勝戦で敗れ、全国大会には出られなかった。小学生時代からずっと悔しい思いをしてきたため、高校に入ったら絶対に甲子園に行くと心に誓ったという。PL学園時代は1年生の投手としては唯一春の大会でベンチ入り(背番号11)。1年の秋季大会では肘を痛めていたため松井自身は投げることができなかったが、チームは勝利し、春のセンバツに出場(背番号1)。準々決勝で先発に指名された。医者からは30球から50球が限度と言われていたが、痛み止めの注射を打ってマウンドに上がった。試合が始まると球が走らず、3回途中2失点でマウンドを降りた。その後チームは2年生時の夏、3年生時の春ともに甲子園出場を逃す。自身も背番号10でベンチ入りはしていたものの怪我のためほとんど投げられなかった。肩や肘がようやく治ったものの、3年生時の夏の大会直前の強化合宿でぎっくり腰になった。死ぬ思いで治療に専念し、大会に入っても腰に違和感はあったものの、試合当日何とか投げられる状態に回復した。松井は1回戦、2回戦とも9回まで投げ抜き、16奪三振を記録した試合もあった。決勝戦では近大付高の金城龍彦との投げ合いとなった。PLは3点を先取し、松井も4回まで1安打ピッチングだったが、5回に連打で2点を取られ、7回にも金城の二塁打がらみで逆転を許す(3-5)。8回にもスクイズで1点を追加され、3-6で敗れた。試合後にはベンチ横で涙を流す一幕もあったドラフト前に読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、福岡ダイエーホークスから話があったが、巨人とダイエーからは投手ではなく野手として指名するという話だった。1993年のドラフト会議で西武ライオンズが3位指名で交渉権を獲得し、契約金5000万円、年俸450万円(金額は推定)で入団した。西武からは野手として指名された。背番号は「32」。2003年12月10日にニューヨーク・メッツと3年2010万ドル+出来高で契約した。背番号は7を希望するがホセ・レイエスが着けていたため断念。球団からは5番と25番を提示され、「足して7になる」という理由で25を選択。契約にはニューヨーク・ヤンキース、ロサンゼルス・ドジャース、アナハイム・エンゼルスを除くチームへのトレード拒否権が盛り込まれていた。2006年6月9日にイライ・マレーロとの交換トレードでコロラド・ロッキーズへ移籍した。ロッキーズの広報担当者は、松井を当面3Aのコロラドスプリングスでプレーさせることを明らかにした。その後、コロラド・ロッキーズとマイナー契約を結び、傘下のAAA級のコロラドスプリングスでプレー。メジャー昇格を目指すものの、昇格することなくシーズンを終えてFAとなり、代理人のアーン・テレムとの契約も解除した。MLBでは合計7年間プレー。7年間ですべてのMiLBの組織を経験した。通算安打数はイチロー、松井秀喜に次ぐ日本人歴代3位の615安打を記録した。松井秀喜と区別するため、日本のマスコミでの表記は「松井稼」となっている。リトル松井やリトルゴジラと呼ばれることもある。2011年は楽天に松井宏次が在籍していたため、球場のスコアボード表記も「松井稼」となり、アナウンスはフルネームだった。2014年からは楽天に松井裕樹が在籍するためアナウンスはフルネームであるが、スコアボード表記は「松井」となる。メッツ時代には、テレビ中継で Kaz Matsui と表記されたことがあり、アメリカ製のスポーツカードには Cazzo Matsui と表記されるものもある。全身バネとも称される高い身体能力を持ち、プレーの美しさ、パフォーマンスの高さで人を魅しうる能力を持つ選手。西武時代は俊足、巧打、長打、強肩、好守を持つ、いわゆる5ツールプレイヤーとして評価され、史上最強の一番とも称された。『江川卓・スカウティングレポート2000』では、PERFORMANCEの3つの項目である「打力(Hitting)」、「守備力(Fielding)」、「走力(Running)」で、10段階中Fielding、Runningが10、Hittingが9、『江川卓・スカウティングレポート2001』ではFielding、Running、Hittingすべて10という評価が付いており、日本球界最強のオールラウンド選手と呼ばれた。一方で多くの怪我を経験し、30歳前後からは離脱が増えている(後述)。広角に打球を打ち分ける技術を持ち、コンパクトなスイングながら打球をスタンドまで放つ能力を有する。低めのボールを得意とする他、2014年にはアウトコースに対し高打率を記録した。プロ入り当初は出塁率を求めるためボールに合わせる打撃だったが、フルスイングすることを重視し長打力が開花。2001年の打撃成績への反省から、長打力を増すために研究、試行を行った。バットを寝かせずヘッドを入れないようにしたのがその一つであり、内角球に差し込まれることが減りミートする確率も高くなり、軸も定まり飛距離を増した。MLB移籍後の2007年にはバットスピードを向上させたことでコンタクト能力が向上。速球に強い他、変化球への対応も進歩。スイングはやや大きいもののバットコントロールに優れ、難しいボールをファウルにできることで深いカウントまで持っていく能力に秀でる。2008年は逆方向への長打が増え、oWARやOPS、OPS+、wOBA、wRC+等でMLB自己最高を記録した。初回先頭打者本塁打が多く、先頭弾男とも称される。日本での通算初回先頭打者本塁打数は現役選手では最多であり、MLBでも通算9本の初回先頭打者本塁打を放っている。ウエイトトレーニングによる筋力アップで、1998年は9本塁打だったのが2000年には23本塁打に増加した。本塁打を打てる打撃を研究したという2002年には前年から12本増となる36本塁打を記録し、同年の日米野球でもMLBの重いボールで2本塁打を放った。2000年から西武最終年となる2003年まで全てのシーズンで20本塁打以上、特に最終2年はいずれもリーグ4位、日本人リーグ2位の本塁打を放ち、MLB移籍1年目にも前半戦だけで7本塁打を記録したが、ロッキーズ移籍後には「ロッキーズ移籍後は、むしろパワーは捨てて、堅実な1、2番打者としての役割を再認識されたことで、また輝き始めたような印象も受けますが。」との問いに、「日本では、パワーヒッターでもないのに、あれだけホームランを打てて、打順も3番を任されたことがありました。でも、あのときは、本当の自分ではない自分を作っていたような感じでした。メジャーでやっていくなかで気付いたのは、打球の飛距離なら、いくらでも上がいる。」「メジャーでも、本当の自分ではない自分を求めてしまったら、それは無理がありますよね。だから、メジャーでは、本当の自分を作っていこうと。他人にはなく、自分にはあるものを大切にする。それはなにか考えていくと、僕の場合は、例えば相手が嫌がるようなバッティングだったり、いつでも走れる積極的な盗塁だったり。自分を特徴づけて、そこを伸ばしていこうとすると、徐々にチームに欠かせない選手になれる。チームのバランスでは、ホームランバッターも必要だけれど、リードオフマンも必要。自分がどういう選手なのか、それを知って、それを磨くことが大切なんだなと、改めて思いました」などと答えている。MLB時代は西武時代よりスイングを小さくしており、日本復帰後は少し振りを大きくすると語っている。谷沢健一によると、松井は右打席だと体がスウェー(スイング中に体の中心部が前後・左右・上下に揺れ動くこと)する傾向にあり、左打席をやらせてみると体の軸がぶれずいい形で打て、それから本格的に両打ちに挑戦したのだという。過去のスイッチヒッターは叩きつける打法が多かったが、松井は体の回転をうまく使って強い打球を打っており、長打を量産できるのはこのフォーム故だと松井のフォームを解説している(フォームは西武時代のもの)。またメッツ時代の松井のフォームに対してはテークバックの際の体勢のかがみ過ぎ故、ステップが広くなり腰が回らなく手打ちになってしまっている点などを指摘している。ロッキーズ時代にMLBのスカウトから「バントのうまさはメジャー有数」と評されていたが、星野仙一からは「欠点を探せばバントが下手なことくらい。」と評されている。右打席に入るときと、左打席に入るときとでは意識して別の人格を演じており、右打席のときにはアホでバカな自分を前面に出し、左打席のときには論理的で分析的な自分を前面に出すようにしていたという。30メートル走3.6秒、一塁到達まで西武時代は3秒台中盤、メジャー移籍後も4.0秒を記録した俊足を誇り、ベースランニングも滅法速い。「盗塁にはホームランを打ったぐらいの価値がある」と言い盗塁への関心が特に高く、「塁上の飢えた狼」、「盗塁を心理劇からミュージカルに変貌させる男」とも評された。「数多く走るのではない、成功すること。そうでないと走るべきではないです。」と語っており、2001年にはシーズン26盗塁で盗塁死はなく、盗塁成功率100パーセントを記録するなど、2002年開幕前の時点では309盗塁で盗塁成功率.841を記録。成功率が高いのは、他の選手とのスピードの違いであるという。MLB移籍後も2007年には盗塁死は4度のみで(32盗塁)、同年まで盗塁試行数71回中62回成功。MLBのスカウトには年に150試合出られれば60盗塁以上するポテンシャルがあると評されていた。MLB通算盗塁成功率も102盗塁で.850を記録。この記録はMLB歴代8位の記録である(2013年終了時点)。楽天移籍後も俊足は健在で、2011年のキャンプではベースランニングのタイム、ノックの捕球→送球動作でも、チーム一速い若手を上回る数値を計測し、2013年にもキャンプでの30メートル走でチーム2位の記録を出した。2011年開幕前の時点で306盗塁、盗塁成功率は300盗塁以上で日本歴代2位の.814を記録。2014年終了時点で345盗塁、盗塁成功率.818、日米通算では447盗塁、盗塁成功率.825としている。普通の選手は二盗を試みる際両足を一、二塁を結ぶラインにそってフラットにリードを取るが、松井は右足を前に出すクローズスタンス。左足のひねる量を増やすことで爆発力を生み、早くトップスピードに乗る狙いがある。当時の一軍内野守備走塁コーチである永池恭男はクローズスタンス、松井に関して「他の選手では左足が流れ、二塁方向に一直線に出せない」、「股関節と膝の柔らかさがあり、強さも兼ね備えているから左足を一直線に出せる」と語っている。リードはチームメートの聖澤諒や片岡易之に比べると小さく、松井も35歳の時に「(若い)聖沢のあそこまでのリードはできない」と語ったが、当時の紅白戦で自身の通常より0.15m短い3.15mのリードながらスタートの爆発力で補い、簡単に二盗を決めてみせた。西武時代の守備位置は遊撃手一筋で、他の守備位置は1試合も守っていない。守備範囲の広さ、肩の強さなど高い身体能力を活かした守備を見せる。特に肩の強さに定評があり、西武時代に監督を務めていた東尾修は「そのままピッチャーをやっていても1イニングくらいは抑えられたんじゃないか。マックスで150km/hは超えていた」と語り、同じくコーチを務めていた須藤豊は「あんな肩、見たことがなかった。巨人でコーチしていた頃は河埜和正が強肩の遊撃手と呼ばれていたが比べものにならなかった。まるでメジャーリーガーのよう」と語った。また、当時の二軍監督である黒江透修は「動きが良く、肩が強く、ショートに必要なすべての要素を兼ね備えている」と語っている。1999年のオールスターのスピードガンコンテストでは球速150km/hを計測し稼頭央が「救援」投手プラン 登板過多リリーフ陣のため40歳男気スポーツニッポン、2016年4月29日閲覧。、西武第二球場で遠投テストをした際には、120メートル先のバックスクリーン越えの大遠投を披露した(記録は測定不能)。一方でプロ入り当初はフィールディングには難があったため、須藤と共に遊撃手としてのグラブの動きを練習し、小坂誠の動きを手本にしながらフィールディングを磨いていったという。プロに入り後に遊撃手に転向したが、ポジショニングや捕球、送球と守備のすべてをゼロから学び、そこからゴールデングラブ賞を4度獲得するまでの道のりは平坦ではなく、4度のゴールデングラブ賞は才能ではなく練習の積み重ねによるものと自著で著している。通常は二塁手が中継に入るライトからの返球を、西武に限っては当時の二塁手でもあった辻発彦の肩の衰えによる影響もあり松井が代わって行ったり、三遊間の深いゴロを一塁にノーステップで送球してアウトにするプレーも多く、松井自身も三遊間ならどこに飛んでも処理できれば刺せると語っている。一塁から本塁を狙った走者が幾度となく松井の強肩で刺され、また松井が守備に就いているときは「内野安打は不可能」とまで言われていた。セイバーメトリクスの専門家からも松井の守備について高く評価されている。上記のように日本人選手ではトップクラスと言われていた遊撃手としての肩の強さだが、西武時代からMLBのスカウトより肩の強さはメジャーの遊撃手としては平均的と評されていた。一方で、送球の正確さやフィールディング、守備範囲は高く評価されていた。送球の際の腕の角度は様々だが、どの角度で投げても正確な送球ができ、捕ってから投げるまでも素早い。守備範囲も2001年には平均よりかなり上、2003年も平均より上と評されていた。一歩目の動きが非常に速いため、両側にかなり広い守備範囲を持っており、後方にも非常に広い守備範囲を持つ。フィールディング能力も平均よりかなり上と評されており、グラブ捌きは迅速かつ柔らかく、ジャンプ力や打球への読み、敏捷性やボディコントロールにも優れていた。2001年には「守備ではトップから4、5番目の優れた遊撃手になれる」、2003年には「ゴールドグラブを受賞できる」との評価が下されている。1996年の日米野球の際にはカル・リプケンから「3年目にしてはグラブさばきもグッド。経験を積めばもっとうまくなる」、アレックス・ロドリゲスから「彼がまだショートに転向して3年目なんて、スピード、フットワークとも素晴らしい」と評価された。一方でMLBでは天然芝の球場が主流であり、松井の西武時代の球場は人工芝若しくは土のグラウンドがほとんどで、メジャータイプの球場がYahoo! BBスタジアム(現・ほっともっとフィールド神戸)のみだったことが懸念されていた。MLB1年目はメジャーの球場に適応できず、打球へのアプローチが日本時代とは別人のようになり、上記の懸念材料が露呈する形となった。シーズン途中には日本にいたときとほぼ同じ状態をつかみつつあったものの、その後故障。怪我からの復帰を目指している中で、守ったことのない二塁手への転向を宣告された。復帰したシーズンラスト3試合は二塁手として出場した。二塁守備でも2005年のシーズン当初は苦戦を強いられたが、2006年にはDRS、UZR等でプラスを記録し、更に2007年にはゴールドグラブレベルと評価されるまでとなった。人工芝でプレーした時期が長かったためか人工芝特有の「打球を待って捕る癖」などが足かせとなっていたが、天然芝でプレーする経験を積むに従い、フットワークが向上。俊敏性に優れ、モーションは非常に滑らかで、特に一二塁間の打球に強い。守備指標においても2007年シーズンの守備率.992は二塁手リーグトップであり、DRSは同3位、UZRは二塁手メジャー2位を記録するなど高い数値を残した。2008年も高い評価をする向きがあり、2009年にも最も優秀な守備選手に贈られる「ディフェンシブ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー」の候補10人の中に名を連ね、リーグ2位、チーム歴代2位となる守備率.991、ダブルプレー達成数リーグ2位を記録するなど高い評価を得ていたものの、DRSとUZRでは2008年は平均を下回り、2009年はいずれも平均(±0)だった。MLB通算では二塁手としてDRS2、UZR5.6、遊撃手としてDRS-7、UZR-12.6の数値を残す。DPR(併殺)、RngR(範囲)、ErrR(失策)の中で遊撃手としてはプラスを記録したのはDPRだけだったが、二塁手としては全てプラスの数値を保持した。レンジファクターは2004年に遊撃手リーグ3位、2007年、2009年には二塁手リーグ1位を記録した。楽天移籍後も遊撃手、二塁手として出場。テレビ番組すぽると!(2012年11月28日放送)の「プロ野球選手100人が選ぶ1/100」の守備部門において3位に食い込み、WBC日本代表のチームメートの坂本勇人は「松井さんの投げる球は威力があって怖い。コントロールも正確だし、レベルが違います」と発言、守備において選手間で高い評価を得ている。2013年にも遊撃手として規定試合数に到達し、DELTA算出のDP(併殺)、ErrR(失策)では遊撃手として平均以上と優れた数値を叩き出したが、RngR(範囲)では平均を下回っている。肩や守備範囲には陰りが見えるが、捕れる打球を確実に処理し、捕球後に素早く送球するスローイングは色褪せておらず慧敏さは喪失していない。2013年のWBC日本代表合宿ではプロ初の三塁を守り、2014年にも5月から体の負担を減らすため三塁守備の準備を進め、5月4日にシーズンで初めて三塁を守った。同年には自ら志願し外野に挑戦し、8月21日にシーズンで初めて外野の左翼手の守備に就く。2015年には登録を内野手から外野手へ変更し、外野手へ本格的に転向。外野守備について大塚光二から前の打球に対してのチャージの仕方、捕球してからのスピードを称賛されており、中堅手としてコンビを組んでいる聖澤諒からは「打球判断、足の速さ、野球センスの塊です。カバリングに気を使う必要もないし、べらぼうにうまい右翼手だと思います」と評されている。同年は400イニング以上出場した右翼手としてリーグナンバーワンのUZR9.7を記録した。手首の使い方は12球団一とも評される。肩肘の負担をなくすためスナップスローに取り組み、不利な体勢で捕球しても一瞬で体に軸を作り矢のような送球を放つことができる。バックハンドトスの技術も高く、三塁に就いていた6月13日の広島東洋カープ戦では、三遊間のゴロを捕球してそのまま二塁に約25メートルの距離をバックハンドトスで送球し封殺を完成させた。2015年より外野手転向に伴い内野手独特の横手からのスナップスローを封印する。小学生時代から多くの怪我に見舞われており、PL学園時代の思い出は試合より怪我とどう闘ったかしか思い出せないくらいだという。高校時代に怪我で出場機会に恵まれなかったことが試合を休んでレギュラーを譲ってはいけないという教訓になっているといい、シーズン全試合出場に拘り怪我や体調不良があっても試合を休まず、1996年から西武最終年の2003年まで全試合出場を続けた。ぎっくり腰の状態で打席に立ったこともあり、また当時の守備走塁コーチである笘篠賢治は、オールスターで負傷しても後半戦開幕戦に出場を志願した松井に対しサイボーグと称したこともある。西武時代晩年には腰痛等の影響で指名打者での出場もあり、本塁打を打った際に足を引き摺りながらベースランニングするといった光景も見られた。8年連続全試合出場を続けた西武時代とは対照的に、MLB移籍後は移籍1年目から6年連続で故障者リスト入りするなど、幾度となく怪我で離脱を経験した。日米通算2000本安打を達成した頃には故障者リスト入りが実に9度にも及んだ。2009年シーズン前のオフにはコアトレーニングに取り組んだ。コアを重点的に鍛えたことで毎年のように悩まされていた故障を克服できた旨を語っており、同年シーズンは一度故障者リスト入りしたものの、MLB移籍後では自己最多の出場数を記録した。日本プロ野球選手会が2000年より毎シーズンオフに行っている「選手が選ぶ!ベストナイン」にパ・リーグ遊撃手部門で、2000年から西武最終年となる2003年まで4年連続で選出され、2013年も選出された。また、かつてセンチュリーベストナインにも選出されており、日本プロ野球史上最高の遊撃手とも呼ばれた。書籍『プロ野球を統計学と客観分析で考える セイバーメトリクス・リポート1』でのオールタイムベストナインのダイジェスト選出では指標の数値では松井を選出することになるとされている。守備について、週刊ベースボール実施の『球界200人が選んだ!内野守備ランキング』において遊撃手3位、テレビ番組すぽると!(2012年11月28日放送)の「プロ野球選手100人が選ぶ1/100」の守備部門において3位と、軒並み高い評価を受けている。一方で、久慈照嘉は松井の守備に対し芳しい評価を与えていない。MLB EloRaterにおいて、メジャー歴代日本人野手では3位にランクインしている。西武時代に当時の監督である東尾が千葉ロッテの監督をしていたボビー・バレンタインから「誰とでもいいから交換してくれないか」と松井とのトレードを持ち掛けられたことがある。東尾は「メジャーの監督経験のあるバレンタインが惚れこむほどの力が、2年目のカズオにあったのだ。」と綴っている。身体能力の高さは周囲の誰もが一目置いており、日本人としては究極とも評される。かつて高木大成は「今のプロ野球選手で、自主トレしなくてもキャンプに入れるのは、稼頭央しかいないでしょう」と語っていたが、高山久が自主トレの「松井稼塾」に参加した際には、高山はあまりのハードさにパンクしてしまったというほど実際はハードな自主トレを積んでいるという。メッツ時代には相次ぐ故障による練習不足により身体能力と走力が低下している。2011年時点の体脂肪率は12%。また、若い頃はずっと体脂肪率は1桁だったと語っている。若手に負けないトレーニングで肉体の衰えを防いでいるという。2014年も10%以下を維持している。ずば抜けた瞬発力を持っている。筋肉を構成する筋線維は、持久力に優れた遅筋線維と、瞬発力やスピードを生み出す速筋線維に分かれるが、宮本英治は松井は特に速筋線維が優れていると分析しており、「一流のアスリートになればなるほど速筋繊維は柔らかいが、稼頭央のはゴムまりのよう。あの柔らかさは筋肉番付で一緒になって触ったヒクソン・グレイシー並み」「弾力を持った筋肉なのに、グッと力を入れるとカチッと硬くなる。その時にものすごい力が出るんですよ。僕は他のスポーツも含めて色々な選手を見てきましたけど、ちょっと初めてですね、こういう筋肉は」などと語っている。 また「何のスポーツをやってもトップになれる」「持久力系はキツイかもしれないけど、陸上の短距離、投擲、ラグビーだってイケる。格闘技やっても強いでしょうね」「もし野球をやっていなかったら、短距離走やレスリング、瞬発力系の種目で金メダリストになれた」とも語っている。清原和博は西武時代に「あいつは陸上でメダル取れるんやないか。いまならまだ間に合うで」と語っている。スポーツマンNo.1決定戦の際にも「プロ野球選手じゃもったいない。陸上選手のほうがいいんじゃないですか。オリンピックで金メダル獲れますよ」と語っている。またある大学の陸上関係者はダッシュの練習を見た際に「30メートルまでなら日本の短距離界でもトップクラスでは」と真面目な顔をして語ったというエピソードがある。金村義明は「練習をみていてとんでもない身体能力だなとびっくりした。」「22年間野球に携わってきて、あいつはナンバーワン。スピード、パワー、そしてハートも超一流。」「西武に来た選手がみんな驚くのが、稼頭央のパワーとスピード。外国人までがひっくり返る。」などと語っている。星野仙一は「稼頭央の一番すごい部分は、身体能力が並外れて高いところ。過去の選手と比べてもその能力はナンバーワンだね。」と称賛している。2009年に長嶋茂雄ドリームプロジェクト2009に参加した際、握力測定で出場選手中一番の77.3キロを記録した。30メートル走では3秒6を記録したことがあり、2013年のキャンプでの30メートル走では聖澤諒に次ぐチーム2位の記録をマークした。100メートルを足を肉離れした状態で12秒ちょっとで走ったことがある。2011年のシーズン終了後のオフに放送されたテレビ番組「新春!名球会ゴルフin台湾(テレビ東京)」の「一球入魂!スピードガン対決!」において、王チームの最後の砦として出場。高木チームに勝つには球速135km/h以上が必要だったが、137km/hを記録し王チームを逆転勝利に導いた。2014年のキャンプでブルペンで投球した際にもMAX137km/hを記録した。スクワットでは体重の約2倍にあたる160キロのバーベルを楽々とこなしたことがある。これはラグビー、柔道などパワー系スポーツ選手の数字である。バレーボールを使用すればダンクシュートができる。ジャンプは足りているものの片手でバスケットボールがつかめず、バレーボールで試みるとうまくいったという。最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦に4度出演している。しかし種目を欠場することも多く、特にMONSTER BOXは一度も出場していない。2000年に放送された大会では7種目中僅か2種目の出場に留まった(スペシャルトライアルのWORK OUT GUYSを除く)。2001年以降は出場していない。膝の怪我をしていた高木大成の代役での出場だった。第2種目のDASHでは1995年大会で飯田哲也が6秒29を記録しているが、床の上で出したこの記録は陸上競技用のスパイクを履けば5秒台に相当するという(飯田は更にその後の1996年大会では6秒26を出し記録を更新している。)。この大会では飯田が予選の第1組で登場し、後半流したにも関わらずいきなり6秒25を出し記録を更新。しかし予選の第4組で登場した松井が後半歩いてゴールしながら1組目で飯田が記録したDASH最高記録を0.01秒上回る6秒24を記録。準決勝では1組目で飯田が6秒14を記録し会場から歓声が上がったが、松井はそれを上回る6秒11を記録。会場は再び悲鳴にも似た大歓声が上がり、飯田は松井の走りを見て驚嘆したという。決勝では松井が6秒07を記録し、飯田に背中を見せつける大差で三連覇を阻止した。第4種目のSHOT-GUN-TOUCHでは12m00cmまでダイビングもせずにクリア。続く12m20cmでも他の選手がギリギリで勝負している中マットに体を任せたもののダイビングせずクリアした。続く12m40cmもまだ誰もクリアしていない状況の中またもダイビングせずクリア。2回目に挑んだ城友博が失敗し、松井のNo.1が確定。ここから自己申告が許された松井は、マーク・クリアが持つ世界記録12m60cmを上回る12m70cmを申告。1回目は失敗するも2回目で成功。その後12m80cm、12m90cm、13m00cmを成功。この競技で25ポイントを獲得し独走態勢に入る。最終種目のTHE GALLON THROWでは5m20cmで1度失敗するも2回目で成功。パワー系の選手が脱落する中同競技ベスト3を確定させた。続く5m30cmに失敗するも垣内哲也、清原に次ぐ3位となり、総合No.1に輝いた。第1種目のTHE BEST OF TUGGERではチーム佐竹としてチーム古田に敗れ、第2種目DEAD MAN'S DROPでも1回戦で秋山幸二に敗れ2種目連続で1回戦敗退となった。松井はMONSTER BOXに欠場し、前回No.1のDASHにかけてきた。予選第1組に登場し、最後に軽く流したにも関わらず6秒30を記録。準決勝では1996年パ・リーグ盗塁王の村松有人と対決し、最後に流しながら6秒15を記録。見ていた緒方孝市は「速すぎる、スピード違反じゃ」と叫んだという。緒方とのセ・パ盗塁王対決となった決勝ではスポーツマン新記録となる6秒06を記録しNo.1に輝いた。THE GALLON THROWでは前回の記録を更新し、5m40cmを記録し2位。7種目終了時点では総合4位で、1位の秋山との差は220ポイントだったが、最終種目のSHOT-GUN-TOUCHで13m20cmまで到達。この距離を成功させれば秋山を抜き暫定1位だったが失敗に終わり、2連覇はならなかった。第1種目BEACH FLAGSでは決勝で河口正史を破りNo.1に輝く。POWER FORCEでは1998年のパ・リーグMVPに輝いた松井、JリーグMVPに輝いた中山雅史のMVP対決が実現し、勝利した。その後決勝まで進出するも高田延彦に敗れ、2位に終わる。その他THIRTYでは3位に輝き、THE GALLON THROW、SHOT-GUN-TOUCHの2種目を残して暫定1位と2度目の総合No.1をほぼ手中に収めていたが、その2種目を欠場し、トータルではMONSTER BOX、THE GALLON THROW、SHOT-GUN-TOUCHの計3種目を欠場。総合8位に終わる。総合ポイントには加算されないスペシャルトライアルのWORK OUT GUYSでケイン・コスギと同組に。丸太切りでケインに出遅れるもトラック引き前にはリード。しかしトラックのロープを身にかけるのに時間を要し、最終的にケインに後れを取った。タイムは暫定1位だった井口忠仁のタイムを上回り、ケインに次ぐ暫定2位の好タイムだった。最終的にフランシスコ・フィリォ、ケイン、ニコラス・ペタスに次ぐ第4位のタイムだった。その後第1種目のBEACH FLAGSから第5種目のTHIRTYまでの5種目を欠場。最終2種目であるTHE GALLON THROW、SHOT-GUN-TOUCHの2種目を理由は定かではないが別会場で挑んだ。欠場種目が多かったため総合No.1争いには絡まなかったものの、THE GALLON THROWではケインやペタス、フィリォ、河口、秋山、サミー・ソーサらを退け、当時歴代2位となる記録6m00cmでNo.1に輝いた。1995年に本名から変更した登録名の『稼頭央』には「中央で先頭に立ち、活躍する」という意味が込められている。夫人は菊池美緒で、2人の子供をもうけている。夫人はUCC上島珈琲のすらっと茶のCMに出演しており(中村玉緒と共演)、松井もUCC上島珈琲のUCCスーパー2のCMに出演している。夫人のはとこには五十嵐隼士がいる。ロッキーズでチームメイトだったトッド・ヘルトンとは1995年のシーズンオフに開かれたハワイ・ウィンタートレーニングのマウイ・スティングレイズでも共にプレーしたチームメイト。ヘルトンは、会話こそしなかったが松井のピッチングも含めた守備に強い印象を受けたと語っている。なお、ヘルトン自身は前記の通り、会話はなかったと言っており既に忘れている事のようだが、松井本人はアクシデントで急遽マウンドに上がり相手チームから三者三振を奪い、興奮して挑発的な仕草をした直後にヘルトンから「デッドボールの報復があるから、やめておけ」とたしなめられた事を覚えていた。またロッキーズのヘッド・トレーナー、キース・ダガーも同チームに帯同していた。メッツ時代に二遊間コンビを組んでいたホセ・レイエスとは互いに実力を認め合っており、いつも行動を共にしていた。レイエスは松井がロッキーズに移籍する際「マツイは毎日、野球がうまくなるために積極的に練習していた。でも相次ぐ故障で本来のプレーができずに苦しかったと思う。これからもベストを尽くしてもらいたい」「いいやつだし、一緒に野球ができて楽しかった」と語っている。バスケットボールやテニスが好きであり、中学時代は一時期バスケットボール部に所属していたこともある。オフに自主トレに加える形でバスケットボールやテニスをするという。もし野球をやっていなかったらバスケットボールの選手を目指していたと語っている。また中学時代はボーイズリーグに所属していたため、学校の野球部には入部しなかったが、他の部活に飛び入りで参加していた。他のスポーツで様々な動きを吸収し、それが野球の動きにも応用できているという。ブルース・リーが好きであり、また小学三年生の時は野球とかけもちで少林寺拳法を習っていた。同じ大阪出身で同級生である上原浩治とは親しい間柄にあり、共に練習を行ったり食事をしたりしている。2003年のオールスターゲームでは全球ストレート勝負した。子供の頃は原辰徳が好きだったという。2013年に楽天に加入したアンドリュー・ジョーンズ、ケーシー・マギーがチームに溶け込めるよう、キャンプから積極的に声を掛け、ジョーンズは「松井はものすごく気をつかってくれる。おかげで楽しくやれている」と語り、マギーも「いつもジョークを飛ばしてくる。異国の地でプレーする僕らの立場を分かっているんだ」と語っている。ジョーンズはメジャーで松井と対戦経験があり、以前から松井の存在を知っていたという。またジョーンズは日本シリーズの移動日の際に松井の自宅を訪れ、チームメイトを交えたホームパーティーを行い「本当にいいチームメートに恵まれている」と語っている。努力家であり、元チームメイト、練習パートナーである熊澤とおるは「カズが一番すごいのは、努力できる才能と勇気」と語っている。西武時代の監督である東尾修は松井について「人の5倍練習した。慣れない守備と左打ちが2倍ずつで右打ちだけ人並み。」と自身のコラムで著し、2009年8月15日に日米通算2000本安打を達成した際には「スイッチヒッターと守備と、とにかく何倍も練習してきた選手。メジャーでは故障など苦労もあったと思うが、それを乗り越えて達成した数字に敬意を表したい」と語っている。楽天移籍後から「BURN!」(バーン)というパフォーマンスを行なっている。メジャーリーグ時代のチームメイト、ミゲル・テハダが行っていたという動きで、右手でハイタッチをしようとして、そこから後ろに手を引くという動きのパフォーマンスである。主に適時打を放った時に塁上で行い、2012年には他の楽天の打者の多くが真似をしだした。名称は公募で「BURN!」に決定。得点が入るとファンも動きに合わせ「BURN!」と叫ぶようになった。発展型としてホームヒーローインタビューの締めに使われている「1、2、3、BURN!」というパフォーマンスが使われている。小学生時代から高校生時代まで日本代表に選出されたことは無く、日本代表に選ばれたのはアテネオリンピックの予選時が最初である。日の丸がついたユニフォームへの憧れを強く抱いていたといい、日本代表のユニフォームに袖を通した時には、胸に何か熱いものが去来したという。アテネオリンピックの予選では台湾戦で2安打2打点、韓国戦では犠打で先制点を演出するなど計11打数3安打3打点で日本の3試合全勝にリードオフマンとして貢献。アテネオリンピック本選はMLBに移籍したため出場しなかったが、ビデオで日本代表にメッセージを送った。第2回WBC日本代表には松井はNPBから協力を求める事前連絡を受けながらまさかの落選となり、所属事務所幹部が「選手へのリスペクト(尊敬の念)が足りない」と激怒するなど騒動となった。代表に選ばれた松坂大輔は一緒にやりたかったと語っている。その後松井は優勝を果たした日本代表に祝福の声を上げた。第3回WBC日本代表では代表に選ばれた。キャンプでは「プロに入って一番、振っているかも分からない」というほどWBCにかけており、監督の星野仙一も心配するほど急ピッチで仕上げた。対外試合初スタメンとなる壮行試合のオーストラリア戦では逆転の3点タイムリー三塁打を含む4打点を記録するなど好調だったが、次の強化試合の阪神戦では2番二塁手として先発出場する予定だったものの腰痛で欠場した。本戦では進塁打や四球はあったものの安打は出ず、スタメンで起用された試合は全て途中交代となった。準決勝で9回2死に代打として起用されるもセンターフライに倒れ、日本代表の最後の打者となった。1996年の日米野球では田中幸雄の負傷により補充選手として合流し、第5戦で3番ショートとして出場、5打数3安打2盗塁を記録。トータルで18打数10安打の打率.556と打ちまくった。盗塁も5つ記録し、守備でも続けざまに好プレーを披露。2002年の日米野球では第1戦で2番ショートとしてスタメン出場していた石井琢朗に代わり代打で出場し安打を放つなど、3打数2安打を記録した。その後第2戦から最終戦まで1番ショートとしてフルイニング出場した。第6戦ではアリゾナ・ダイヤモンドバックスのミゲル・バティスタのストレートを本塁打とし、日米野球日本人選手では1964年の江藤慎一、1974年の高田繁と並ぶ3人目、28年ぶりの先頭打者本塁打を記録した。松井は「1本くらいホームランを打ちたいと思っていたから最高やね」と語り、バティスタは「リトル・マツイは機敏さだけでなく、パワーも十分さ。(ダイヤモンドバックスの本拠地がある)アリゾナに連れて帰りたいよ。きっと戦力になる。ボスにはオレが推薦するよ」と語った。4回にはアナハイム・エンゼルスのスコット・ショーエンワイスが投じた外角高めの球を左翼上段へ運び2点本塁打を放つ。日米野球日本人選手の1試合2本塁打は1984年11月13日の対ボルチモア・オリオールズ戦で宇野勝が打って以来18年ぶりであり、川上哲治、王貞治ら過去5人、回数にして8回目の快挙であり、左右両打席で記録したのは初めてだった。トータルで32打席で規定打席到達者では1位の打率.423(26打数11安打)、5四球、1犠飛、2本塁打、7打点、出塁率.500、長打率.731、OPS1.231の記録を残した。日米野球は通算4度出場。通算成績は68打数26安打で打率.382。その他、2002年に日本プロ野球記録である小鶴誠のシーズン85長打を更新するシーズン最多長打(88長打)を記録したことで、連盟特別表彰を受けた。
出典:wikipedia
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