流山線(ながれやません)は、千葉県松戸市の馬橋駅と同県流山市の流山駅を結ぶ流鉄の鉄道路線である。みりん産業がある流山市中心部とJR常磐線の馬橋駅を結ぶ。接続するJR常磐線の複々線区間とは対照的に、2両編成の電車が走行する郊外の単線鉄道である。沿線は1970年代頃までは雑木林や農地などが広がるものだったが、その後は沿線の宅地化が進むと同時に都心への通勤利用が増加した。以前の路線名は「総武流山線」であったが、専ら「流山線」を使用していた。これは「総武流山電鉄が経営する路線」と言う意味(会社線名)でも使用していた。2008年8月1日から「流山線」が正式な路線名となったが、馬橋駅の乗り場案内標識や車内掲示の路線図では従来より使用していたため表記に変更はない。JR常磐線に乗り入れる東京地下鉄6000系・06系の車内LEDの乗り換え案内では2010年3月頃まで「総武流山電鉄線(Sobu-Nagareyama Line)」と表示されていたが、現在は「流山線(Nagareyama Line)」と表示されている。路線図では「馬橋」の上部にある「総武流山線」の表記が修正されていないものもある。※幸谷駅接続または新松戸駅を発着地とする馬橋駅接続の連絡運輸の設定はない大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2014年4月1日改定。※180円区間は設定のみで実際には存在しない。全列車がワンマン運転の普通列車(各駅停車)で区間運転はなく、馬橋駅 - 流山駅間の全線を行き来する。列車交換は交換設備がある途中の小金城趾駅で行う。全線所要時間11分。昼間は20分間隔、朝間帯は13分間隔で運行されている。それ以外は15 - 20分間隔、土休日の夜間のみ20 - 30分間隔での運転となっている。1990年11月18日に実施してから2009年6月20日まで、18年7か月間もの長期にわたりダイヤ改正は行わなかった。この期間、接続する東日本旅客鉄道を始め、日本の多くの事業者がいわゆる「週休二日制」に伴い土曜日を休日ダイヤで運転するようになったが、本路線では土曜日も平日ダイヤでの運転を行っていた。2009年6月21日に日中のワンマン運転開始と終日に渡る運転間隔の均等化を実施した。その7か月後の2010年1月23日には、始発列車の繰り上げ(流山発4時55分)と最終列車の繰り下げ(馬橋発翌0時17分)、夜間帯の増発と終日ワンマン運転の実施と共に、土曜日を休日ダイヤに変更する改正を実施した。流山線沿線は、日本の他の公共交通機関の例に漏れず少子高齢化(通勤・通学者の減少)の影響も現れており、1993年度をピークに収益・乗車数とも減少傾向が続いている。その後の2005年、流山線の近くに首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス(TX)が開業し、年間の乗車人員が前年度2004年度に比べて約16%減少、特に流山駅では1日の利用客が50%近く減少した。TX開業前の2004年時点では、朝ラッシュ時3両編成の上り列車は流山駅ですべての座席が埋まり、幸谷駅に到着する頃には通勤客で立錐の余地もない状態であったのに対し、2006年時点ではほぼ全区間にて朝の上り列車で座れる程度にまで乗客が減っており、現在のように宅地化が進む以前の1970年代の水準にまで減少している。TXとの乗換駅は設置されていないが、鰭ヶ崎駅と南流山駅の間の道程は約0.9km、流山駅と流山セントラルパーク駅の間は約1.3kmと近接しており、TXの駅にも近い所に住む通勤者の多くが通勤経路をTXへ変更したと見られている。このため流鉄では2005年度末から2両編成車をワンマン対応に改造するなどの工事を行い、ワンマン運転化を進めた。ただしワンマン化には経費が約1,500万円がかかるといい、中期的な合理化であるとしている。2006年5月17日から比較的乗客の少ない昼間に限り一部列車でワンマン習熟訓練を実施し、2009年6月21日のダイヤ改正より昼間時の列車をワンマン化、2010年1月23日にはワンマン運転完全実施となった。この他、柏市に流鉄の不動産を売却して鉄道事業の損失を補うなどの対策を採っている。一方、流山市としては都市計画と合わせた活性化策を検討している。鉄道運転事故は1994年度の踏切障害事故(小型トラックと列車の衝突、負傷者なし)を最後に起きていなかったが、2013年度に馬橋 - 幸谷間の踏切で自転車と接触する踏切障害事故(負傷者なし)、2014年7月11日に幸谷 - 小金城趾間の踏切で乗用車との衝突で電車が脱線する事故(乗用車に乗っていた2人が死亡)が起きている。その他の輸送障害(列車の30分以上の遅延や運休)の発生件数は以下の通りである。1896年(明治29年)12月25日、日本鉄道土浦線田端 - 土浦間(現常磐線)が開通し、それに伴い松戸駅が新設され、流山町の人々も松戸駅まで約2時間徒歩で向かい鉄道を利用した。和船や蒸気船では東京両国まで数時間かかり、また、1 - 2時間の遅延が頻発したが、それに比べて鉄道は40 - 50分ですみ、時間も正確であった。1898年(明治31年)には馬橋駅が開業し、流山から徒歩1時間半で鉄道を利用できるようになる。その後、1911年(明治44年)になると北小金駅が開業し、流山から鉄道駅まで徒歩1時間になり、流山の人々の喜びは一入であった。このような交通事情の変化のもと、「流山町にも鉄道を」という気運が湧き上がってきた。鉄道敷設免許申請1912年(大正元年)、秋元平八ら31名(その後、8名増える)の商工人が発起人となり、鉄道建設の行動を起こし、流山の人々の多くが賛成した。そして、同年9月17日に鉄道敷設免許申請を提出し、1913年(大正2年)7月1日付で認可された。1912年(大正元年)の申請時の資本金は5万5千円であったが、行政側からの命令により資本金を7万円に増資して免許を取得する。流山軽便鉄道株式会社設立1913年(大正2年)11月7日、流山軽便鉄道株式会社設立。同日、流山町で会社の創立総会を開催し、都築六郎が初代社長に就き、同年11月20日に東京地方裁判所において会社登記を行う。会社の本社は、当初は東京市神田連雀町18番地にあり、鉄道建設申請の受付窓口は東京府庁にあった(本社は1967年(昭和42年)5月、流山に移転)。資本金は7万円で、株主数は116人であった。会社創立時の役員は以下のとおり。このような経営陣で会社を運営し、鉄道用地の買収を開始する。株による資金調達の状況は、流山駅前にある商店店主の話によると以下のようなものであった。「このあたりの商店もみんなで株を買ったものです」(商店店主)当初は本鉄道の社員も役員も地元の住民が多く、流山町長が取締役に就任していたことなどから町民のための鉄道ということで「町民鉄道」と呼ばれていた『散歩の達人』2003年11月号( p27)より。。このときの出資者が一株株主に至るまで流山居住の人々であったことから「町民鉄道」の名称が当鉄道の代名詞のように使われるようになったが、利益の見込めない地方鉄道に他の地域の人々が出資することは稀であるため、祭りの寄付金のような一種の地域分担金として流山の住民が所得に応じて株を購入し、出資に応じた。用地買収と建設費1914年(大正3年)の前半までに鉄道用地買収は完了した。買収した総面積は4丁4反2畝11歩(約43,871m)、買収費用は11,880円38銭6厘(11,800.386円)、建設費は80,274円92銭(80,274.92円)であった。同年3月には工事認可が出て、会社は工事を開始する。鰭ヶ崎付近を除くとほとんどが平地なので工事は順調に進んだが、馬橋駅構内の工事の進捗に遅延が生じ、会社は何度も工事竣工延期願を担当の役所に提出している。軽便鉄道(軌間762mm)開業1916年(大正5年)2月に工事が完了し、3月13日には営業開始準備が完了。会社は政府の許可を得た翌日の3月14日に営業を開始する。開業時の乗車賃の記録は残っていないが、地元の古老の記憶によると、流山 - 馬橋間(5.7km)は12銭(0.12円)であったという。当時は上野 - 馬橋間(21.3km)が18銭(0.18円)、上野 - 北小金間(24.2km)が21銭(0.21円)であった。鉄道業務に関わる人員の構成は、書記2名、主任技術者1名、駅長1名、助役1名、車掌2名(うち1名は助役を兼任)、駅員2名、機関庫主任1名、機関士1名、機関助手1名、給炭・給水職員1名、清掃職員2名、保線職員4名である。同年2月、流山鉄道開設記念協賛会が『流山案内』を発行し、それには次のように書かれている。「流山軽便鉄道は、国鉄常磐線馬橋駅を起点にし、流山町(流山駅)を終点とする旅客と貨物の輸送を目的として敷設された路線であり、流山町と国鉄常磐線を結ぶ唯一の交通機関である」(『流山案内』)開業当初の経営状況開業時の駅は、馬橋駅、大谷口駅、鰭ヶ崎駅、流山駅の4駅で、機関車2輛と客車2輛、貨車2輛で営業を開始する。開業当初の経営状況は苦しく、蒸気機関車の燃料である石炭がときどき底をつき、当鉄道の重役などが経営する味醂会社などから石炭を借用することもあった。石炭が入手できないときは「本日汽車休み」の張り紙が流山の町の主要な場所に張り出されたという。1916年(大正5年)3月14日から12月31日までの業績開業の年の1916年(大正5年)3月14日から12月31日までの乗客数は50,508人であった。季節により乗客数に変動があり、3月と4月は旅客と貨物は好調であったが、5月と6月は農繁期のため乗客数は少なかった。農村地域を走る小さな鉄道のため、農繁期など季節の影響を諸に受ける鉄道であった。意外なことに、流山の人々は当初は鉄道をあまり利用しないで、今までどおり徒歩で移動したり荷車を引いて荷物を運んでいた。当時の会社の営業報告書には次のようにある。「徒歩や荷車を引くような昔ながらの方法を引き続き行い、時間と労力を無駄にすることを考えない地方にありがちな因習を未だに打破できない…」(営業報告書)しかし、年を追うごとに乗客数、貨物輸送量ともに増加していく。乗客数貨物輸送量推移と社名変更(流山鉄道へ)乗客数と貨物輸送量は下記の表のように年々増加していく。また、改軌前(軌間762mm時代)の1922年(大正11年)には社名を流山鉄道に変更している。乗客数と貨物輸送量が増加した大きな要因は1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦である。日本は大戦特需となり、旅客および貨物の輸送量が増加し、その影響は本鉄道にも及んだ。1918年(大正7年)11月の第一次世界大戦終結後も日本経済は好調で、鉄道輸送も好調であった。大戦後の不況が顕在化したのは1920年(大正9年)の後半であるが、本鉄道では流山の人々が鉄道を利用することがごく普通のこととなってきており、1922年(大正11年)に上野公園で開催された平和記念東京博覧会への見物には本鉄道を利用した。1923年(大正12年)に行われた江戸川改修工事のために多数の工事関係者が本鉄道を利用し、また、関東大震災により人や物資の移動が活発となり、これらが本鉄道の乗客数、貨物輸送量増加の要因となった。そして、同年には現在の平和台駅付近の南西側に陸軍糧秣本廠流山出張所の建設工事が始まり、工事関係者や建設資材の輸送量が増加し、本鉄道は第一次世界大戦後の不況や関東大震災による経済的損失を被ることなく、むしろ業績は好調であった。陸軍糧秣本廠流山出張所が建設されたことにより、本鉄道は軍用鉄道として位置付けされることになる。改軌(軌間1067mm)1924年(大正13年)12月、軌間を762mmから1067mmに改軌し、国鉄貨車の直通を可能にした。陸軍糧秣本廠流山出張所が完成する前年である。この陸軍の出張所へは現在の平和台駅付近から引込線が敷設され、貨物輸送量が飛躍的に増加した。改軌時に蒸気機関車No.15とNo.16が入線。サドルタンクにダイヤモンド形の火の粉止め付き煙突という特異な形態の本機は映画『牛づれ超特急』に出演する。蒸気機関車のほかに、明治期の旧型の木造2軸客車2輛と貨車2輛を国鉄から購入して、営業を開始した。1938年(昭和13年)にNo.15とNo.16の交替でNo.1255が入線する。1933年(昭和8年)にキハ31、1934年(昭和9年)にキハ32のガソリンカーも入線する。当初、キハ32には当時の燃料事情の都合により木炭ガス発生装置が装備されていたが、後に撤去される。本鉄道を訪れた大木貞一は雑誌『鉄道趣味』1933年(昭和8年)9月号に、「(馬橋発のガソリンカーには)客は私のほかに爺さんだけ、途中の三駅は客がなければさっさと通過する。…流山発のガソリン車に客は私一人、中間駅は(乗降客がいないため)皆通過し」(大木貞一)と本鉄道訪問記を寄稿しているほど閑散で、当時の年間乗客数は7万9千人であった。太平洋戦争中の出来事太平洋戦争中の流山町は、本鉄道と陸軍糧秣本廠流山出張所など各種の軍事施設があり、軍都の役割を果していた。そのため流山町はアメリカ軍から攻撃目標とされた。1942年(昭和17年)4月18日には同町に初めて米軍機が現われた。空母ホーネットを発艦したドーリットル空襲の爆撃機だが、上空を通過したのみだった。1945年(昭和20年)2月に米軍機は東京を爆撃し、この米軍の作戦行動により同町で初めて犠牲者が出る。2月24日8:30pm頃に東京から鹿島灘に向かった1機の爆撃機B29が約10発の爆弾で同町各地を爆撃した。翌25日の午前には関東地方一帯が米軍艦上機により攻撃され、同日午後にはB29が東京を攻撃した。同日のB29は低空飛行をしたために日本軍の迎撃により撃墜されるものも出て、そのうちの1機が現流山市初石地区に墜落した。また、パラシュートによる乗員脱出もあり、同町に隣接する柏町では米兵が逮捕された。7月10日朝には米軍艦上機の攻撃により現同市東初石で犠牲者が出る。このような戦況のなか、同月17日には米軍艦上機により本鉄道の列車が攻撃されて機関士が重傷を負い、列車には約40ヶ所に着弾した跡があった。戦後の動力エネルギー事情と電化の経緯太平洋戦争後は燃料となる石炭やガソリンが不足しており、列車の運行がままならぬ状況であった。その打開策として動力エネルギーを経費が安価で比較的入手しやすい電力に移行することになった。1949年(昭和24年)12月に電化が完了し、国鉄から直流1500Vの電力を購入し、電車3輛で運行を開始する。国鉄常磐線は同年6月1日に松戸 - 取手間が電化ずみ。電化に際しては、1947年(昭和22年)に公選で初めて流山町長になった中村寛次が電化のための活動を開始する。5.7kmの営業路線で変電所を建設したのでは採算に合わないため、常磐線松戸 - 取手間が電化されたら、その電力を融通してもらうために早くから参議院議員小野哲(あきら)(元・千葉県官選知事)に陳情し、当時の運輸省の上層部に働きかけてもらい、部長級官僚への働きかけは千葉県選出の参議院議員山崎亘(わたる)に行ってもらった結果、国鉄から電力を供給してもらえることになった。日本の電化私鉄のなかで、変電所を持たない電化私鉄は本鉄道だけであった。電車検修場改築電車庫は1949年(昭和24年)12月26日の電化運転合わせて建設し、1978年(昭和53年)10月26日に検車庫構内の土留め工事を施工、1979年(昭和54年)12月に検車庫内にピットを新設。そして1981年(昭和56年)12月16日に検車庫を改築する。輸送量の推移1946年(昭和21年)の乗降客数は前年とほぼ同じで、100万人台を維持したが、翌年から減少が続いた。しかし1951年(昭和26年)には110万人台まで回復し、以後乗降客数の伸び続ける。貨物輸送量は太平洋戦争敗戦後から減少し始めたが、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争の影響により軍需物資の需要が増加したため朝鮮戦争前年には増加に転じる。貨物輸送量は次のように推移していく。1945年(昭和20年)約8万7千t、1946年(昭和21年)約6万t、1947年(昭和22年)約3万7千t。朝鮮戦争前年の1949年(昭和24年)は約5万6千tまで一時的に増加するが、朝鮮戦争が停戦になると再び減少していき、1955年(昭和30年)には3万7千t台になる。乗客数増加と社名変更(流山電気鉄道へ)電化後の1951年(昭和26年)11月28日、社名を流山電気鉄道と改称。当時の年間乗客数は119万6千人。1962年(昭和37年)度は200万人超。1966年(昭和41年)度には313万9千人。これは本鉄道沿線の宅地開発が行われたためである。1974年(昭和49年)には4百万人台にまで増加するが、翌年は約364万まで減少する。同年の乗客数減少の一因には流山市立鰭ヶ崎小学校の開校により、流山線を通学に利用していた小学生の減少がある。しかし1976年(昭和51年)には4百万人台まで回復した。貨物輸送量の減少貨物輸送量は減少を続け、1960年(昭和35年)約2万5千t、1961年(昭和36年)約2万3千t。1965年(昭和40年)は1万t台、1966年(昭和41年)には5千t台まで減少する。貨物輸送量減少の原因は道路網の整備によるトラック輸送への転換である。また、沿線にある酒造工場の一つが休業になったことも一因である。同年はキッコーマン酒造工場への引込線が撤去される。この引込線は1929年(昭和4年)に流山駅から堀切家が経営する工場まで敷設されたもので、原料と製品の輸送に使用された。国鉄武蔵野線の建設が始まるとその建設資材輸送に流山線が使用され、貨物輸送量は多少増加し、1968年(昭和43年)約9千9百t、1971年(昭和46年)約3万7千t、1972年(昭和47年)約3万6千tになる。しかし武蔵野線が完成すると貨物輸送量は激減し、1973年(昭和48年)には約1千6百t、1975年(昭和50年)は約940tとなった。そして1976(昭和51)年度(年度末は1977年3月31日)を最後に貨物輸送を廃止する。列車交換設備整備と社名変更(流山電鉄へ)1967年(昭和42年)5月、本社を流山に移転し、同年6月20日、社名を流山電鉄に変更。同年7月1日から輸送量を倍増するために、小金城趾駅に列車交換設備を整備し、一日の列車本数を上下各32本から各46本に増発した。朝の通勤通学時間帯は、馬橋駅と流山駅の両駅では、列車が到着すると隣のホームで発車時刻待ちしていた列車がすぐに発車する運行形態をとった。1971年(昭和46年)1月20日、社名を総武流山電鉄と改称。経営陣も交替が激しく、平和相互銀行の小宮山グループの傘下に入り、第2位の株主は銚子電気鉄道のオーナー内野屋工務店である。国鉄武蔵野線開業の影響1973年(昭和48年)の国鉄武蔵野線開業の影響により、乗客数の伸びは今までのように急増はしていない。1970年代半ばの収益1976年(昭和51年)度の鉄道部門の収入は2億7千万円である。当時の経済状況はインフレであったが、このような状況下でこの収入であることから、当鉄道の規模の小ささがわかる。この頃、当鉄道では70歳以上の流山市民の乗車賃を無料にしていた。1978年(昭和53年)以降は西武鉄道から18輛の車輛を譲り受け、各編成ごとに車体のカラーリングを変えて、オレンジ色の「流星」、青の「流馬」、銀の「銀河」、若草色の「若葉」、黄色の「なの花」、赤の「あかぎ」という愛称が付けられた。「青空」は青地に白の「N」の文字をあしらったデザインで、本鉄道初の冷房車である。各編成の愛称は一般公募で決められた。また、乗客数は伸び続け、1993年(平成5年)度の乗客数は610万人を超え、1996年(平成8年)には一日の列車本数が上下各72本になった。変電所建設輸送量の増加に対応して本鉄道は変電所を建設。2008年(平成20年)8月1日、本鉄道は社名を流鉄に、路線名を流山線に変更した。流山軽便鉄道が作られた遠因には鉄道忌避があった(鉄道忌避があったため常磐線が流山を通らなかった)とする説が過去には通説とされていたことがあった。忌避説が文献に最初に発表されたのは1964年(昭和39年)の『松戸市史』である。その後忌避説は北野道彦が執筆した『「町民鉄道」の60年』と『総武流山電鉄七十年史』へ受け継がれる。流山市立博物館学芸員山下耕一はこの説を否定している。本鉄道は路線延長を申請または計画したが、いずれも実現していない。森口誠之著『鉄道未成線を歩く国鉄編』によれば江戸川に沿って市川 - 松戸 - 流山 - 野田 - 関宿 - 境 - 三和 - 小山に計画された総野線構想が存在し、実現した暁には流山線は国鉄に買収される計画だった。(本節は『「町民鉄道」の60年』(p19 - 21)を参考文献とする)鉄道建設発起人には、秋元平八、中村権次郎、鈴木金左衛門、村松喜太郎、秋元三左衛門、堀切紋次郎などの流山の名士が名を連ねたが、中心となって活動したのが秋元平八である。平八は1869年(明治2年)に流山で生まれ、現在の早稲田大学を出た。「平八」という名前は代々の襲名である。平八の家は秋元家の分家であるが、本家の秋元三左衛門とともに味醂「天晴(あっぱれ)」の醸造を手掛け、ほかに醤油も製造していた。平八は家業にはあまり熱心とはいえず、新し物好きで風流人であったらしい。流山では1900年(明治33年)頃に自転車が流行りだしたが、平八は自転車に夢中になり、自転車を趣味とする人たちの親睦会「曙輪友会」(あけぼのりんゆうかい)が発足した際に、その会長の座についた。そして、ツーリングに出かけたり、各地のロードレースに参加した。そしてまた、馬場山の一部を切り開き、自転車競技場を建設し、自転車レースも主催した。こうした指導力を持っていたことに起因して、平八が鉄道建設運動の指導者に推されたものと考えられる。また、平八は俳句も趣味とし、「洒汀」(しゃてい)という俳号を持っていた。文学・美術も好きで、小説家や画家とも交流が深く、彼らの後援者でもあった。平八の家には多くの小説家・画家が訪ずれた。小説家では国木田独歩や田山花袋、画家では岡倉天心や横山大観などである。平八は1935年(昭和10年)に74歳で亡くなった。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月17日、本鉄道の列車が米軍艦上機の攻撃を受け被弾した。『流山市史研究』には次のようにある。また、以下のような列車の乗客および乗員の証言がある。車両は1994年以降全車が西武鉄道からの譲渡車で統一され、5編成10両の車両(2013年12月現在)が使用されている。各編成ごとに異なる愛称がつけられ、異なる塗色が施されている。「流馬」「流星」「若葉」「あかぎ」「なの花」は全車両が2両編成であり、ワンマン運転開始に伴い行先表示器が幕式からLED式に換装されている他、ドア開閉チャイムと案内放送、自動の車内アナウンス装置が取り付けられている。なお愛称ごとの車体色は車両が代替わりしても一貫しており、歴代愛称ごとの車体色は「流馬」=水色、「流星」=橙色、「あかぎ」=臙脂色、「なの花」=黄色、「明星」=柿色、「若葉」=黄緑色、「青空」=紺色、「銀河」=銀色となっている。2009年に西武から譲渡された元新101系で、クモハ5000形-クモハ5100形の2両編成。2010年1月20日より「流馬」(3代目)、2011年3月11日より「流星」(3代目)、2012年3月14日より「あかぎ」(2代目)、2012年12月3日より「若葉」(3代目)、2013年12月6日より「なの花」(3代目)が、それぞれ営業を開始した。西武時代に種別幕だった表示器には「ワンマン」を表示する。1994年導入。クモハ2000形・モハ2100形・クハ20形の3形式から成る。元西武701系・801系であったが、老朽化のため、2009年に3両編成の「明星」・「流馬」(2代目)、2012年に2両編成の「青空」、2013年4月28日に2両編成の「なの花」(2代目)が、それぞれさよなら運転を実施して運用を終了した。1999年に旧101系を譲受し、「流星」(2代目)と「若葉」(2代目)の3両編成2本としたもの。2010年1月23日のダイヤ改正で定期運用から離脱し、「流星」は2010年8月29日、「若葉」は2011年5月15日に、それぞれさよなら運転を実施して運用を終了した。1979年 - 2001年在籍。1200形はクモハ1200形・サハ60形・クハ80形の3形式、1300形はクモハ1300形・クハ70形の2形式から成る。いずれも元西武の車両で、501系を種車にした3両編成の「流星」(初代)・「流馬」(初代)・「銀河」・「若葉」(初代)と、551系・クハ1651形を種車にした2両編成の「なの花」(初代)・「あかぎ」(初代)があった。流山線で現在まで続く編成愛称を導入した最初の車両である。太平洋戦争直後の化石燃料(石炭、ガソリン)事情の悪化に対応するために、戦後初の公選選挙で選ばれた流山町長が中心となって流山鉄道の電化に動き出す。町長は5.7kmの小私鉄である流山鉄道自社で変電所を建設及び維持することは採算に合わないと考え、国鉄常磐線の電化を見越して、国鉄から直流1500Vの電力を購入するために千葉県選出の参議院議員を通じて運輸省に働きかけ、国鉄からの電力購入に成功する。そして本鉄道は常磐線電化から半年後に電化を為し遂げる。電化当初の電車の輛数は3輛であった。電化前はガソリンの入手が困難で、ガソリンカーによる定時運行が思うようにいかない状況であった。そのためこの時期には蒸気機関車による旅客列車も復活した。国鉄から客車や救援車、蒸気機関車を借り入れて営業を行ったが、車両の増備は行われなかった。この車両不足の状況は電化によって改善することになる。1949年末に電化は完成し、国鉄から電車を3両(モハ100形)購入した。その後100形が1両(モハ105)が増備され、クハ51、Mc+Tc編成(モハ1001+クハ52)も入線した。キハ31とキハ32はエンジンを撤去され、付随車として電車に牽引されていたが、電車の増備により廃車となった。モハ100形は、本鉄道電化の際に国鉄から払い下げを受けた車両で、元南武鉄道モハ100形である。台車はボールドウィン製BW78-25A系。単行あるいは増結用として使われていた他、貨車を牽引して混合列車として運行されることもあった。14m級半鋼製2扉車である。車体各部には若干の相違がある。通風器は101・103がお碗形、102・105がガーランド形である。3ドア車の入線により増結用として使用されるようになった。100形は本鉄道電化以来使用されてきた車輛のため、電気部品も老朽化が進んでいるため、2輛ぐらいを中間車化を兼て更新する予定があった。なお流鉄モハ100形の全廃と入れ替わりに、東濃鉄道駄知線から後述の流鉄モハ1002-クハ55が入線しているが、この車両とともに使用されていた東濃モハ103・クハ201・クハ202は、流鉄モハ100形と出生の同じ南武モハ100形である。モハ1000形はクハ50形と組んで2両編成で運用されることが多かった。クハ50形は、モハ1000形あるいはモハ1100形と編成を組んで運用された。駿豆鉄道から蒸気機関車2両(No.15・No.16)を借り入れ、後に正式に購入した。客車は国鉄から4輪客車を3両購入し、貨車も国鉄から購入した。1933年から1934年にかけて内燃動力の併用認可を得て、4輪ガソリンカーを2両(キハ31・キハ32)を新製で購入。当時は鉄道で内燃動車が実用化された頃で、経済性とフリークエントサービスを目的に採用した。ガソリンカーの導入により客車は休車となり、その後廃車。蒸気機関車は貨物及び入換専用となった。1938年には国鉄から蒸気機関車(No.105・No.1255)を購入し、No15とNo.16を廃車にした『鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p57)より。。蒸気機関車は、本鉄道所有機が4輛、国鉄からの借用機が1輛在籍していた。ディーゼル機関車は、馬橋駅での貨車入れ換え用機と1輛在籍していた。ガソリンカーは、2輛在籍していたが、2輛とも後に動力装置を外され、客車として使用された後で廃車となった。客車は、本鉄道所有車が5輛(うち2輛はガソリンカーからの動力装置を外した二軸車)、国鉄からの借用車が4輛在籍していた。貨車は、本鉄道で有蓋車と無蓋車を保有していた。保線車両等にはキャブ付タンク車、トロッコ、車輛整備時に使用する台車などがある。流山市立博物館に写真が展示されている(2004年時点)。開業時に準備した車両は蒸気機関車・客車・貨車がそれぞれ2両であり、営業運転上最小限の必要両数であった。この状態は電化時まで続けられた。蒸気機関車のうちC形9t機は使用を中止し、頸城鉄道の3号機(初代)を代わりに購入。その後、雨宮製作所製のB形6t機を購入して3号機とし、1号機を売却。さらに田中鉱山からB形5.7t機を購入して4号機とし、2号機を売却した。(※参考文献によって、No.1とNo.2の車歴の記述が異なり、その影響で、この2輛の後継機となるNo.3とNo.4の当鉄道への入線経緯が錯綜することに注意)ウェブサイト書籍年刊誌『世界の鉄道』(朝日新聞社)月刊誌(増刊号含む)『とれいん』(プレス・アイゼンバーン)月刊誌(増刊号含む)『Rail Magazeine』ネコ・パブリッシング月刊誌(増刊号含む)『鉄道ピクトリアル』(鉄道図書刊行会)月刊誌『鉄道模型趣味』(機芸出版社)月刊誌『散歩の達人』(交通新聞社)辞典論考書籍雑誌註
出典:wikipedia
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