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第四次中東戦争

第四次中東戦争(だいよじちゅうとうせんそう、その他呼称は「名称」を参照)は、1973年10月にイスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国(以下、アラブ諸国を総称する際に「アラブ」という名称を用いる)との間で行われた戦争の名称である。中東戦争の一つに数えられる。"中東戦争の全体については、中東戦争を参照"1973年10月6日、イスラエルにおけるユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」(贖罪の日、、)に当たったこの日、6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪回を目的としてエジプト・シリア両軍がそれぞれスエズ運河、ゴラン高原正面に展開するイスラエル国防軍(以下イスラエル軍)に対して攻撃を開始した。「ヨム・キプール」の日に攻撃を受けた上、第三次中東戦争以来アラブ側の戦争能力を軽視していたイスラエルはアラブ側から奇襲を受ける形となり、かなりの苦戦を強いられることとなったが、(イスラエル軍の主力である)予備役部隊が展開を完了すると、アメリカの支援等もあって戦局は次第にイスラエル優位に傾いていき、10月24日、国際連合による停戦決議をうけて停戦が成立した際、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵入していた。純軍事的にみればイスラエル軍が逆転勝利をおさめたのだが、戦争初期にとはいえ第一次、第二次、第三次中東戦争でイスラエルに対し負け続けたアラブ側がイスラエルを圧倒したという事実は(イスラエルはアラブ側に対して負けるはずはないという)「イスラエル不敗の神話」を崩壊させ、逆にイスラエルに対して対等な立場に着くことができたエジプトは1979年、エジプト・イスラエル平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された(同年ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合を宣言した)。この戦争は冷戦期における地域紛争の中でも、比較的新しい兵器が大規模な形で投入され、特にミサイル兵器の活躍(9M14「マリュートカ」(AT-3「サガー」)対戦車ミサイル、双方が史上初めて対艦ミサイルを使用したラタキア沖海戦など)はめざましく、第三世代主力戦車の開発など各国の兵器開発に少なからぬ影響を与えた。また戦争中行われたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の親イスラエル国に対する石油禁輸措置とそれに伴う石油輸出国機構(OPEC)の石油価格引き上げは第1次オイルショック(第1次石油危機)を引き起こし、日本をはじめとする諸外国に多大な経済混乱をもたらした。「ヨム・キプール」の日に戦争が勃発したことに由来。または10月に戦争が勃発したことに由来。または単に「ラマダン戦争」とも。イスラム暦の断食月(ラマダーン)10日に戦争が勃発したことに由来。単に「1973年の戦争」という表記も見られる。「第4次中東戦争」という表記も存在。「消耗戦争」を「第四次中東戦争」とし、本戦争を「第五次中東戦争」とする文献もある。"以下、戦争名はすべて「第四次中東戦争」で統一する。"1967年6月5日、イスラエル空軍はエジプト、ヨルダン、シリア、イラクの各空軍基地に対して攻撃を開始し、第三次中東戦争が勃発した。以前からチラン海峡の封鎖や部隊の展開により、「イスラエルの破壊」を声高に唱えていたアラブ側(エジプト・ヨルダン、シリアなど)にとってこの「先の先」を狙ったイスラエル軍の攻撃はまさに「奇襲」であり、開戦わずか一日でアラブ側の航空戦力は壊滅、続く地上戦でもイスラエル軍の前にアラブ軍は敗走を重ね、イスラエルは六日間でエジプトからシナイ半島全域を、ヨルダンからヨルダン川西岸を、そしてシリアからゴラン高原を奪取して戦争は終結した。イスラエルはこの圧倒的勝利により、アラブ側がすぐに講和に応じるものだと思っていたが、アラブ側にとって領土を喪失したままでいられるはずも無く、9月のにおける「3つのノー」(Three No's)に代表されるようにあくまでイスラエルとの徹底抗戦を望んだ。だが、第三次中東戦争以降イスラエル軍とアラブ軍の戦力差はイスラエル優位で隔絶しており、アラブ側にとってこれまでの中東戦争で見られたように「イスラエルの破壊」を狙って全面戦争を仕掛けるよりも、限定的なものではあるとはいえ、領土奪還と同時にイスラエル軍に打撃を与えることで「イスラエル不敗の神話」を崩壊させ、アラブ優位の状態でイスラエルを交渉のテーブルにつかせる方が現実的であった。1967年10月21日、北アフリカ北東沿岸において哨戒中のイスラエル海軍所属駆逐艦エイラートがエジプト海軍のオーサ型ミサイル艇からの対艦ミサイル攻撃で撃沈された(エイラート事件)。この事件は単に史上初めて対艦ミサイルが使用された攻撃であったのみならず、第三次中東戦争以降下がり気味であったアラブ側の士気高揚に役立った。エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル(以下ナセル)大統領は、小規模で効果的な攻撃を仕掛けることでアラブ側の士気を高め、逆にイスラエルに「戦争でも平和でもない」状態を強制することでイスラエルの疲弊と士気低下を狙ったのである。そして69年3月、ナセルは「消耗戦争」を称してイスラエルへの攻撃を本格化させ、スエズ運河では砲撃戦が行われた。これに対しイスラエルはエジプト本土への空爆、小部隊の襲撃をもって徹底的に応戦した。消耗戦争は断続的に約1年間続いたが、1970年8月6日、アメリカの仲介によって停戦した。また同年9月28日、ヨルダン内戦(後述)の仲介工作を行った直後にナセルが急死し、後継者にはエジプト革命時に彼の同志でもあったアンワル・アッ=サーダート(以下サダト)副大統領が昇任することになった。だが当時知名度がナセルよりはるかに低かったサダトは、世間から「つなぎ」の大統領だとみなされていた。シリア方面では、1969年2月28日の政変でハフェズ・アル=アサド国防相が実権を握ったあと、1970年11月のクーデターで全権を握った。これに前後してアサドは当時ヨルダン政府とパレスチナ解放機構(以下PLO)との間で戦闘が行われていた(ヨルダン内戦)ヨルダンに介入し、陸軍をヨルダンに侵入させ、PLO支援を図った。このままではヨルダンとシリアの戦争に発展してしまうことは明らかであった。そこで、アメリカは空母部隊を地中海のイスラエル沖に派遣し、ヨルダンの行動を支持すると共に、軍事介入したシリアに対する牽制とした。イスラエルは地上部隊をゴラン高原に展開し、シリア軍に対して警戒を強めた。当初はこのヨルダンの混乱に乗じてイスラエルが軍事作戦を展開する動きもあったが、その計画は見送られた。結局、ナセルがヨルダン・シリア・PLOの仲介に入り、PLOは受け入れを表明したレバノンへ本部を移転させることとなり、ヨルダン政府軍、PLOとシリア軍は停戦した。この結果、PLOは指導部と主力部隊をレバノンに移した。エジプト大統領に就任したサダトはナセルの外交路線を転換、親ソ連から親米路線を目指し、アメリカの仲介によってイスラエルとの交渉を進めようとしたが、当時のアメリカ国務長官ヘンリー・キッシンジャーの言葉を借りれば「勝者の分け前を要求してはならない」すなわちアラブ側が「負けっぱなし」のままでは交渉仲介に乗り出すことはできない、というのがアメリカの対応であった。このためサダトは領土奪還だけではなく、親米路線転換のきっかけとしても対イスラエル戦争を位置づけるようになった。1972年に入るとエジプトの戦争計画の具体化が進められ、イスラエルに「弱いアラブ軍」や「ソ連との不和」をイメージさせる情報を流す裏で、軍の改革や兵士の能力向上、ソ連からの供与兵器(AT-3対戦車ミサイルやSA-6自走対空ミサイルなど)を有効活用した戦術の研究が進められた。同様に、シリア軍も地上部隊や対空戦力の増強を進めた。1973年夏には、来たるべき対イスラエル戦争の作戦名が「バドル作戦」(;Operation Badr)と定められ、開戦日にイスラエルの安息日かつ「一切の労働」が禁じられる、ユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」に当たり、その他の理由からも最適な1973年10月6日が選定された。エジプトはシリアと連携して作戦計画の作成を活発化させ、同時に石油輸出国機構(OPEC)やアラブ石油輸出国機構(OAPEC)への戦争協力を要請した。イスラエルは諜報機関であるイスラエル参謀本部諜報局(以下アマン)やイスラエル諜報特務庁(以下モサド)を通してアラブ側の戦争準備の動きをほぼ完全に捕捉していたが、第三次中東戦争での圧倒的勝利によってイスラエルには、(アラブ側の工作の結果もあって)「アラブ側の戦争能力を非常に低く見積もる」風潮があったため、ほとんど注意を払うことがなかった。ここにアマンの局長少将が作成した当時のイスラエルの状況認識を表した「コンセプト」(The Concept)という理論がある。すなわち、1975年より前にアラブ側が戦争準備を行ったとしても、それらはすべて「本格的な戦争準備ではなく」、もし仮にアラブ側が戦争を行おうとも、「諜報機関が開戦48時間前にその情報をキャッチして動員が可能で、開戦2日目には反撃して第三次中東戦争以上の圧倒的勝利を収められる」とされた。その他にも第三次中東戦争の経験から、「遮蔽物のほとんどないシナイ半島の砂漠では対戦車砲や歩兵を戦車に見つからないよう隠すことは非常に困難であり、イスラエル軍戦車部隊は歩兵・砲兵の随伴がなくとも単独で突破戦力としての任務を遂行できる」(いわゆる「オールタンク・ドクトリン」)や、「地上部隊が少兵力でも、イスラエル空軍が『空飛ぶ砲兵』として地上軍を常時援護できる」といった理論が語られた。しかし、前述のようにアラブ側は「弱いアラブ軍」を演出する裏で軍の改革を推し進め、そのようなイスラエル軍の戦術への対処も行っていたのである。1971年からアラブ側はイスラエルへの挑発を強め、1973年5月まで戦争の危機が高まるごとにイスラエルは年1回のペースで計3回の動員令を発令した。だが3回とも戦争に発展することはなく、とくに1973年5月の動員は6200万イスラエルポンド(約45億5400円)という経済損失から国民の不満が高まったため、イスラエル軍はこれ以上むやみに動員令を発令することはできなくなっていた。また1972年5月30日の日本赤軍によるロッド空港乱射事件や9月5日のミュンヘンオリンピック事件などユダヤ人が拘束・殺害される事件が世界中で多発し、イスラエルは事件への対応や報復作戦に忙殺されることとなった。1973年9月13日、シリアの湾岸都市ラタキアに面するラタキア沖上においてイスラエル空軍とシリア空軍の空中戦が勃発し、イスラエル側が1機、シリア側が13機の航空機を喪失した。これに呼応する形でゴラン高原ではシリア軍の部隊が本格的な展開を始めた。同時にスエズ運河正面では「タヒール(解放)23」(Tahir 23) 軍事演習を称してエジプト軍の大規模な展開が公然と進められた。当初イスラエルはゴラン高原では空中戦の影響、スエズ運河正面では「あくまで軍事演習」であると信じたため、アラブ側の動向にほとんど対応策を取らなかった。9月29日、チェコスロバキア・オーストリア国境において2人のパレスチナ人テロリストがソ連出身のユダヤ人を乗せてウィーンに向かっていた列車を乗っ取り、ユダヤ人5人とオーストリア人税関職員1人を人質に取る事件があった。当時のオーストリア首相ブルーノ・クライスキーがシェーナウのユダヤ人移民中継キャンプの閉鎖を提案、人質は解放された。イスラエルはオーストリアの対応に反発し、政府もゴルダ・メイア首相が直々にオーストリアまで向かうなどの対応に追われた。この事件はテログループがシリア軍の支配下組織とつながりがあったことから、アラブ側の欺瞞工作であったとする説もあるが、真相は不明である。いずれにせよイスラエルの世論は主にこの事件に注目し、国境付近でのアラブ軍の展開は見過ごされがちとなった。10月5日、依然アマンは「戦争の可能性は低い」としていたものの、参謀総長の中将は、イスラエル軍に「Cレベル」の警戒を発令、同時に第一線部隊の増強が図られた。しかしながら戦争に発展する確信がなく、5月の失敗(前述)からも動員令は発令されず、第一線部隊だけでアラブ軍を相手にするには不安があった。10月6日午前4時、「ヨム・キプール」の日の朝、これまでのアラブ側の動きを「本格的な戦争の準備ではない」としてあらゆる戦争の可能性を一蹴し続けてきたアマン局長のゼイラ少将はこれまでの主張を覆して「今日の夕方18時にも戦争が勃発する」との警告を出した。この報告を受けて、エラザールは国防相のモシェ・ダヤンに空軍の先制攻撃の許可を求めたが、アメリカをはじめとする諸外国から第三次中東戦争同様イスラエルは好戦的な国家であると見なされないために、これは却下された。また20万名の総動員も同様の理由から却下された。結局午前10時に15万人の動員令が発令され、第一線部隊も戦闘準備を行った。だがゼイラの予測より早い14時、エジプト・シリア両軍のイスラエルへの攻撃が開始された。イスラエルは第三次中東戦争でアラブ側がそうであったように、(皮肉にもそのアラブ側から)「奇襲」を受けることとなった。"以下、本稿では「ゴラン高原」とはゴラン高原周辺の戦区を、「シナイ半島」とはスエズ運河・シナイ半島周辺の戦区を指すものとする。"ゴラン高原方面では13時58分からのシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃を行ったのち、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団(第36機甲師団)、戦車数にしてシリア軍1,220輌対イスラエル軍177輌である。ゴラン高原北側の攻撃を担当したシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の第7機甲旅団は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車やその他車輌を次々と打ち取っていったからである。のちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方に待機していた第3戦車師団や精鋭のの増援を得つつ、昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下したが、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。シリア軍は戦車260輌とその他車輌500輌をこの場所で失った。これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍の(戦車定数72輌)は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上てシリア軍の戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65Kmだが、うち40Kmを第188機甲旅団が担当した)、6日夕方にはシリア軍の450輌に対して第188機甲旅団の稼働戦車は15輌にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校の9割が死傷した第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入してゴラン南部でイスラエル軍の防衛線を突破した。6日夜、これらのシリア軍とイスラエル本土の間にイスラエル軍の部隊が皆無なことに気付いたイスラエル軍は、動員を完了した予備役部隊を中隊ごと、時には小隊ごとに逐次ゴラン高原に投入しなければならなかった。こうした部隊を率いた戦車兵の一人、中尉が指揮した小隊規模の戦車隊「ツビカ隊」は夜間にゴラン高原を南北に走る上に展開、ゴラン高原中部に位置する第36機甲師団の指揮所があったに向かおうとする第5歩兵師団の戦車を一晩中延滞させることに成功した。だが7日正午にはシリア軍第1戦車師団のT-55戦車がナファク基地に突入する。この戦闘は第36機甲師団長のラファエル・エイタン少将や師団参謀も武器を取るほどの混戦となったが、「ツビカ隊」をはじめとする各戦車隊がこれを撃退した。この頃になるとイスラエル軍の予備役部隊である2個機甲師団(、 )がゴラン高原に展開を完了した。8日からこれら2個師団によりゴラン高原南部で反撃に出たイスラエル軍は、10日までにシリア軍をゴラン高原から追い出すことに成功した。これに前後して10月6日、シリア軍第82空挺大隊の兵士がヘルモン山の山頂にあるイスラエル軍の監視哨を占領した。イスラエルにとって「国家の目」であるヘルモン山をシリア軍が砲兵観測所として利用されるのを恐れたイスラエル軍は8日、による奪回作戦を試みたが、失敗した。シナイ半島方面ではエジプト軍の5個歩兵師団がスエズ運河を渡河、橋頭保を築くと同時に運河沿いに作られたイスラエル軍の拠点群、通称「バーレブ・ライン」に対して攻撃をかけた。イスラエル軍はすぐさま第252機甲師団(3個旅団基幹、以下第252師団)と空軍機が反撃を行ったものの、第252師団の3個機甲旅団はすべてエジプト軍の構築した対戦車兵器による防衛網によって次々と壊滅させられた。空軍機も同様に、低空用・高空用対空火器を巧妙に組み合わせたエジプト軍の「ミサイルの傘」の前にほとんど有効な航空攻撃を行えなかった。ゴラン高原同様7日から8日にかけてイスラエル軍予備役部隊の第162予備役機甲師団(以下第162師団)と第143予備役機甲師団(以下第143師団)が到着、8日にはこれら2個師団による反撃が行われたが、第162師団は6日同様エジプト軍の対戦車兵器によって大損害をこうむり、第143師団は戦場を迷走したためほとんど戦闘に参加できず、イスラエル軍の反撃は再び失敗した。一方、エジプト軍は「スエズ運河東岸に橋頭保を築いて停戦を待ち、シナイ半島は戦後交渉によって奪還する」という作戦の第一段階が完了したため、むやみな攻撃をかけずに橋頭保の強化につとめ、戦況は膠着状態となった。イスラエル軍はゴラン高原、シナイ半島で二正面作戦を強要され、一時はゴラン高原、シナイ半島の放棄、そして「第三神殿の滅亡」も考えられた。このためイスラエルでは核兵器の使用が真剣に検討され、実際にディモナ核施設では航空機用核弾頭13発が用意された。しかし、戦況がやや好転したため、使用の機会は免れることとなった。10月11日、イスラエル軍は再編成ののちゴラン高原北部からシリア領への逆侵攻を開始した。シリア軍や新たに参戦したイラク・ヨルダン軍などの抵抗を受けながらも、イスラエル軍はシリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程に収められる位置まで進軍したが、それ以上ダマスカスへの進撃は中止された。アラブ側が必死の抵抗をしただけでなく、ダマスカスを陥落させるとソ連軍が参戦するとの警告がアメリカよりもたらされたからとされている。8日以降戦況は膠着し、大規模な戦闘は行われなかったものの、シリアから自国の苦戦を救うためシナイ半島での攻勢がエジプトに要請された。このためエジプト軍は全面攻勢を開始し、10月14日、イスラエル軍との間に大規模な戦車戦が発生した。「ミサイルの傘」を出たエジプト軍は待ち伏せするイスラエル地上軍だけでなく空軍からも苛烈な反撃を受け、エジプト軍が約200輌の戦車を喪失して攻撃は失敗した。この戦闘の勝利によってイスラエル軍はシナイ半島でも戦闘の主導権を取り戻し、スエズ運河の逆渡河作戦を進めることとなった。15日、イスラエル軍の逆渡河作戦「ガゼル作戦」(Operation Gazelle)が開始された。イスラエル軍は渡河点近郊の農業試験場、通称「中国農場」などでエジプト軍の強固な抵抗にあったものの、16日未明には空挺旅団と戦車旅団が逆渡河に成功、17日には第162師団主力が渡河、対空ミサイル基地を掃討しながら「アフリカへの進撃」を開始した。"も参照のこと。"イスラエル・アラブ両陣営は激しい戦闘により、戦車・航空機・弾薬を急激に消耗していった。それぞれの陣営の兵器のおもなクライアントであったアメリカ・ソ連にとって「自国製兵器で編成された軍隊」が敗北することは中東プレゼンスの弱体化にもつながる一大事となるため、ソ連は9日からエジプト・シリア両国に、アメリカは14日からイスラエルに対し大規模な軍需物資輸送作戦を開始した。最終的にアメリカが作戦機800機、戦車600輌を含む約2.2 - 2.8万トン、ソ連が作戦機200機、戦車1000輌を含む約1.5 - 6.4万トンの軍需物資を供給した。これらの物資が両軍の損害を完全に埋め合わせることはなかったものの、イスラエル・アラブ両陣営にとって「超大国が支援している」ということの心理的・政治的効果は大きかった。エジプト・シリア以外のアラブ諸国も戦争に協力した。イラク・ヨルダンはそれぞれ2個独立旅団、2個機甲師団をゴラン高原に派遣した。またモロッコ・サウジアラビア・スーダンの部隊がゴラン高原に、シナイ半島ではアルジェリア・リビア・モロッコ・PLO・クウェート・チュニジアの部隊が戦闘に加入したほか、パキスタンの空軍やレバノンの対空レーダー部隊がシリアに派兵され、キューバも戦車やヘリコプターなどで構成された部隊をシリアにおくり、北朝鮮のパイロットはエジプトの航空基地の防空任務に就いていた。戦況がイスラエル優位に傾きつつあった10月16日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はイスラエルを支援している国(アメリカとオランダ)に対する石油の輸出を禁止すること、アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定した。また、同時期、オイルメジャー代表と原油価格交渉を行っていたOPECのペルシャ湾岸産油国(非アラブ・ペルシャのイランを含む)は原油公示価格の大幅引き上げを一方的に決定した。長期にわたる先進諸国の高度成長による石油需給の引き締まりを背景に徐々に上昇していた原油価格は、これを契機に一機に高騰した。その後、OPECは加盟国の原油価格(公式販売価格)を総会で決定すると言う方式を定着させ、国家間カルテルに転じた。高騰した原油価格は、石油禁輸や供給削減という政策が停止した後も、高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった(オイルショック)。それまで欧米のオイルメジャーが独占的に原油価格を操作してきた実情をみれば、自国の資源を自国で管理したいという資源ナショナリズムの高まりがもたらした結末であり、この事件をきっかけにして、原油価格と原油生産の管理権はメジャーからOPECへ移った。すでに、1960年代後半から欧米で顕在化していたスタグフレーションは、石油危機によって、先進国全体に一挙に拡大、深化することとなった。ダマスカス平原周辺では戦闘は小競り合い程度にとどまっていたが、21日夜、停戦決議を前にしてイスラエル軍によるヘルモン山の奪回作戦が再び行われた。シリア側山頂は容易に占領できたものの、イスラエル側山頂ではシリア空挺部隊の反撃が苛烈でイスラエル軍は多数の死傷者を出した。しかし22日の午前11時には山頂の観測所周辺が奪回された。23日、ダマスカス平原においてシリア・イラク・ヨルダン軍の攻勢が予定されていたものの、シリアが停戦決議(後述)を受託したために攻勢は中止され、戦闘は終結することとなった。第162師団に続きスエズ運河を渡河した第143、第252師団の計3個師団は、運河東岸のエジプト第2軍・第3軍を包囲しようとイスマイリア・スエズ市に向けて進撃した。第143師団はイスマイリア郊外で進軍を停止、第162師団は運河西岸を確保、第252師団はカイロ―スエズ街道を封鎖し、エジプト第3軍を包囲、停戦交渉の「人質」とした。第三次中東戦争同様エジプトが再び決定的敗北を喫することを危惧したアメリカ・ソ連をはじめとする国連安全保障理事会(以下安保理)は停戦工作を推し進め、10月22日、停戦を求めた国連安保理決議第338号が決議され、同日18時52分より発効した。しかしイスラエル軍は作戦行動を続け、24日には162師団がスエズ市攻略を強行したが、守備部隊の抵抗にあって失敗した。25日には国連安保理決議340にしたがって第二次国際連合緊急軍が編成され、停戦監視の任につくようになった。戦況がイスラエル優位に傾き始め、アラブ側の敗北が現実味を帯びてきた上、停戦決議後も作戦行動を続けるイスラエルに対し、ソ連は実戦部隊の展開準備を進め、実際に空輸作戦(前出)に従事していた輸送機を空挺部隊の兵員輸送用に改装するため空輸作戦は停止され、黒海艦隊も増強された。これに対しアメリカは10月25日、デフコンをデフコン4からデフコン3(防衛準備態勢)に引き上げ、第6艦隊への空母部隊の増援、第82空挺師団の出動準備、核搭載B-52爆撃機のグアムから本国基地への移動をもって対応した。一時は「第三次世界大戦」の勃発も騒がれたが、イスラエル軍の作戦行動中止と同時に事態は沈静化した。エジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国はまたもやイスラエルに軍事的敗北を喫したものの、緒戦での勝利によってイスラエルと対等な条件で交渉に乗り出すことができるようになった。エジプト・イスラエル間では1978年にキャンプ・デービッド合意が、続いて1979年3月26日にエジプト・イスラエル平和条約が締結され、エジプトがイスラエルを承認すること、イスラエルがシナイ半島から撤退することが定められた。この条約によって中東戦争は事実上終結することとなった。同時に両国は第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進めることとなった。ただしパレスチナ問題の解決については進展はなかった。またエジプトが「抜け駆け」したことに周辺アラブ諸国は猛反発し、1979年にエジプトはアラブ連盟より追放され(1990年に復帰)、サダト大統領自身も1981年10月6日の本戦争の記念パレードの最中に暗殺された。シリア・イスラエル間では平和条約の締結こそなかったが、キッシンジャー米国務長官の「シャトル外交」と称された仲介工作によって、停戦協定が結ばれ、またゴラン高原のイスラエル・シリア間の国境には緩衝地帯が設けられ、国際連合兵力引き離し監視軍が停戦監視に当たるようになった。初めてアラブの侵攻を受けたイスラエル社会は激しく揺さぶられた。奇襲を予想しなかった国防の準備不足は、国防大臣モーシェ・ダヤンの責任となり、世論は彼の辞職を要求した。最高裁長官は紛争中にダヤンの職務調査を指示した。委員会は首席補佐官の辞職を推奨したが、ダヤンの判断を尊重した。翌1974年にダヤンはゴルダ・メイア首相に辞表を提出した。合計約19,000人のエジプト人、シリア人、イラク人およびヨルダン人もこの紛争で死亡したと推測される。エジプトとシリアの空軍はその対空防御により114機のイスラエルの航空機を撃墜し、自軍の航空機を442機失った。その中には数十機に及ぶ自軍の対空ミサイルの誤射で撃墜された物を含む。なお戦闘機パイロットとして出撃したサーダート大統領の弟も緒戦で戦死している。この戦争で国民的英雄となった当時空軍司令官で後のエジプト大統領ホスニー・ムバーラクはサーダートから副大統領に抜擢される。本戦争は冷戦期の戦争において、双方の陣営がほぼ同レベルかつ比較的最新鋭の兵器を投入した数少ない戦争であった。とくにAT-3"サガー"(ソ連名9M14"マリュートカ")対戦車ミサイルやSA-6"ゲインフル"(ソ連名2K12"クープ")自走対空ミサイルの活躍が有名である。エジプト軍はこれらの兵器を他の対戦車火器や対空兵器と組み合わせることで濃密な防衛網を構築し、緒戦で反撃に向かったイスラエルの戦車部隊や航空機に多大な損害を与えた。一方、戦車業界にとって現代版クレシーの戦いとも称された対戦車ミサイルの活躍で戦車が次々と撃破されたことは衝撃的であり、一時は「戦車不要論」も唱えられた。だが本戦争以降開発された第3世代主力戦車は対戦車火器の火力にも十分耐えうる複合装甲の導入により、地上戦力としての地位を取り戻した。また戦車部隊と歩兵部隊の協同作戦の重要さも再確認され、各国で戦車部隊の行軍に追随できる歩兵戦闘車や装甲兵員輸送車の開発、配備が推し進められた。映画ボードゲームこのほかにも「中国農場の戦い(Battle of Chinese farm)」などのタイトルでボードゲームが多数発表されている。コンピュータシミュレーションゲーム

出典:wikipedia

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