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ザ・タイガース

ザ・タイガース(The Tigers)は、日本のグループ・サウンズ。1967年2月に「僕のマリー」でデビュー。その後、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など、多くのヒット曲を放つ。1971年の日本武道館コンサートを最後に解散。その後1981年11月に「同窓会」と銘打って再結成した( - 1983年)。さらに30年を経た2013年12月にオリジナル・メンバーでの「ザ・タイガース」復活コンサートが複数回開催された(後述)。1981年 - 1983年の同窓会時のメンバーは沢田、岸部兄弟、加橋、森本の5人で瞳みのるは不参加。原型は沢田研二を除く4人で1965年6月に京都市で結成された「サリーとプレイボーイズ」である。岸部、瞳、森本は京都市立北野中学校の同級生(瞳と森本は小学校も同窓)であり、瞳が京都府立山城高等学校夜間部在学中に2学年下に加橋が編入、彼らは1964年ごろから集って四条河原町界隈で遊ぶようになった。1965年1月に大阪で開かれたベンチャーズのコンサートに4人で出かけたことがきっかけでバンド結成へと至った。当初はベンチャーズなどのエレキインストナンバーを主なレパートリーにしていた。しかし、ビートルズなどのリバプールサウンドの影響もあり、専属ボーカルの必要を感じるようになった。4人は、顔を出していた四条河原町のダンスホール「田園」に出演していた「サンダース」でボーヤ兼ボーカルだった沢田研二を勧誘、沢田は1966年元日に正式に「サリーとプレイボーイズ」のメンバーとなる。同時にバンド名も(バンド「リンド&リンダース」の命名で)「ファニーズ」に改称する。改称後は瞳がリーダーとして固定された。改称後のファニーズは、歌主体のいわゆるボーカル・インストゥルメンタル・グループとなった。改称間もなく、ファニーズは大阪・難波にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションを受け、2月から週2日のステージを行う契約を結ぶ。その後人気が出て出演回数も増加、5月には京都会館で開かれた「全関西エレキバンド・コンテスト」にローリング・ストーンズの「サティスファクション」で参加して優勝した。この賞金でバンドは揃いのユニフォームを新調、本格的な音楽活動のため大阪市西成区岸里のアパートで合宿生活に入る。6月には「ナンバ一番」の人気投票で1位となる。こうした人気に、東京に移る勧誘も複数持ちかけられた。東邦企画の上条英男によるもの(他のバンドに、岸部・森本・沢田の3人を加入させる話。沢田が即座に拒絶)、ザ・スパイダースによるもの(マネージャーが「ナンバ一番」に来店した際に「リーダーの田辺も話したいと言っている」と名刺を沢田に渡した)があったが、いずれも実現には至らなかった。ザ・スパイダースについてはファニーズ全員がファンクラブ会員でもあり、当初喜んだもののその後音沙汰がなかったため、森本と沢田が上京して直接田辺に面会したが、田辺の反応は冷淡で発展することなく終わった。6月に「ナンバ一番」に来店したブルージーンズの内田裕也がステージを観覧し、「東京に来る気があるか」と声をかけた。その後3ヶ月ほどその話は進展しなかった(この間、森本を除くメンバーはビートルズ日本公演の初日を観覧している)が、瞳が単身上京して内田に面会し、東京に呼ぶ約束を取り付ける。9月になってブルージーンズが所属していた渡辺プロダクション(通称ナベプロ、現在のワタナベエンターテインメント)のオーディションを受けることが決まり、10月に「ナンバ一番」でのオーディションを経て正式に契約を結ぶ。ファニーズは「ナンバ一番」でのさよなら公演、ファンクラブによる「お別れ会」をもって関西での活動を終える。1966年11月9日、東海道新幹線で上京。3日後、ポリドール・レコード(当時は日本グラモフォン、現在はユニバーサルミュージックに併合)のオーディションに合格し、レコード会社が決まる。メンバーは世田谷区烏山町に用意された住宅に入居し、渡辺プロマネージャーの中井國二を加えた6人で合宿生活を始めた。11月15日、初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)収録当日、渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちにより、ザ・タイガースというバンド名が与えられた。沢田は「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」(プロ野球の阪神タイガースにちなむ)とすぎやまから言われたと後年述べている。当時アメリカ、カナダ、イギリス、日本などで人気だったアイドルグループ、モンキーズの存在を意識して動物名となったとする説もある。すぎやま自身は1987年に、「関西ってこともあったけど、なによりも初めて見たとき“若虎”って印象があったのね、彼らの動きとかにね」と証言している。また、渡辺プロからの指示により、バンドのリーダーも瞳から岸部に変更された。初のテレビ出演では、当時アメリカ本国において、モンキーズに次ぐアイドル人気となっていたパンク・ロックバンドであるの「」を演奏。出演時間はわずか30秒で、渡辺プロではなく内田裕也からすぎやまに売り込んでのものだったという。内田は、上京後すぐにメンバーを麻布のイタリア料理店「キャンティ」に連れて行った。「キャンティ」は当時、文化・芸能人の集まるサロンのような場所で、メンバーはその後もしきりに出入りし、公私ともに影響を受けていくことになる。1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」(1966年12月の録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビュー。12月の録音の際、曲を渡されたメンバーはそれまでの演奏曲との違和や失望を感じたという。渡辺プロ側がタイガースのプロモーションに際してイメージしたのはモンキーズであった。一方、ジャズ喫茶では内田と組んだ「内田裕也とタイガース」として12月から新宿ACBに出演し、ファニーズ時代と同じような楽曲を演奏した。もともとテレビは渡辺プロ、ジャズ喫茶は内田とマネジメントが分かれていたが、ジャズ喫茶においても「ザ・タイガース」として扱われ、内田はプロデュースに近い立場となった。内田の命で新宿ACB出演の際に、メンバーのニックネームと芸名が決まる。岸部(リトル・リチャードのシングル「のっぽのサリー」に由来する「サリー」)・瞳(「ピー」)・森本(本名に由来する「タロー」)は従来からメンバー間で使われていたもの(岸部と瞳は京都時代に自然につけられた)だったのに対し、沢田は自ら女優ジュリー・アンドリュースに由来する「ジュリー」、加橋はトッポ・ジージョに似ていることから新宿ACB支配人の命名で「トッポ」と新たにニックネームを付けた。芸名についても、岸部は本名の読みを変え(「おさみ」)、瞳と森本は逆に表記を変えた(森本は名前のみ)ものだったが、すぐ決まらなかった沢田は内田による芸名を拒否し、加橋は内田に本名(「高橋」)の一文字を抜く形で決められ、こちらも対応が分かれた。1月15日の第31回日劇ウェスタンカーニバルでは、内田と尾藤イサオのバックを引き受ける条件で、内田の用意した衣装を着て1曲だけ演奏。これを契機にジャズ喫茶でのファンは増加、「シャボン玉ホリデー」などのテレビ出演でそれが加速し、従来よりも低年齢(中高生)にファン層が広がった。3月頃から人気が爆発、5月発売のセカンド・シングル「シーサイド・バウンド」は40万枚を超えるヒットとなった。この間、内田は渡辺プロと対立、第32回の日劇ウェスタンカーニバル前日の5月4日に内田は「キャンティ」経営者の川添夫妻の援助で渡仏した。結果として、渡辺プロは自らの路線に合わない内田をザ・タイガースから切り離した形となった。1967年後半には活動の中心はジャズ喫茶からコンサートに変わり、テレビなどの芸能活動も増加していった。烏山の合宿所には女性の追っかけが数多く訪れ、メンバーの日常生活にも支障を来すほどになっていた。1968年には「君だけに愛を」のヒットに続き、3月発売の「銀河のロマンス/花の首飾り」がオリコンシングル・チャートの1位を7週間連続で獲得、公称130万枚・オリコン調べで67.6万枚を売り上げた。7月発売の「シー・シー・シー」も6週1位となり、オリコン調べで50.8万枚を売り上げた。1968年8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。11月25日には、トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を発売。しかし、1969年3月に加橋かつみがザ・タイガースを脱退(所属事務所の演出による「加橋失踪」という形で、後に事務所側は謝罪会見を開いた)。新メンバーとして岸部の弟・岸部シローが加入するも、1969年も夏に差し掛かる頃には急速に音楽シーンが多様化、GSブームも終焉の兆しを見せ始める。秋からはグループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となっていった。1970年4月26日には日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージにて「ザ・タイガース・ショー」を開催するが、12月7日にザ・タイガースは解散を表明。翌1971年1月24日、日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を事実上の解散コンサートとして、ザ・タイガースは解散する(武道館では以前、新曲発表会を開いているので初演ではない)。この模様は、ニッポン放送で3時間にわたり生中継され、テレビでは、録画されたものが1月30日にフジテレビで放映された。また、大幅に編集された実況録音盤(ライブアルバム)『ザ・タイガース・フィナーレ』として同年に発売された。解散後、瞳を除くメンバーで何度か再結成され、コンサート活動も行った。1981年1月、東京・有楽町の日劇が取り壊されるのを前に、「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」が開催され、ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・カーナビーツなどのGSが再結成して集結。瞳以外のメンバーが結集しザ・タイガースも再結成する。翌1982年には「ザ・タイガース同窓会」と銘打って本格的に再結成。アルバム『THE TIGERS 1982』やシングル「色つきの女でいてくれよ」をリリースし、ヒットとなる。日本武道館を含む全国主要都市でのツアーも展開された。コンサートのビデオ、写真集なども発売され、CM出演とシングル発売は1983年まで続いた。1989年12月31日には、『NHK紅白歌合戦』に初出場。紅白40回記念大会の昭和を振り返るコーナーに紅組のピンク・レディーとともに出演し、「花の首飾り」、「君だけに愛を」を演奏する。2013年1月6日の沢田研二正月ライブにて、『オリジナル・メンバーでのザ・タイガース復活』を沢田自らが発表。12月に東京ドームなどでライブを開催する予定とされた。瞳みのると加橋かつみが入ったオリジナル・メンバーでの活動は1969年以来、44年ぶりとなる。予告通り、12月3日に日本武道館にて44年ぶりの復活ライブが開催され、最終となった12月27日の東京ドーム公演にて、後述の岸部四郎が再び病を押してゲストとして登場。これにより、結成以来初めて、6人のメンバーが公の場で一堂に会することとなった。1971年に沢田と一徳はザ・スパイダース、ザ・テンプターズのメンバー数人とスーパーグループ「PYG」を結成。1988年に森本が中心となり、往年のGSの中心メンバーがそろって「タイガース・メモリアル・クラブバンド」を結成、アルバム制作やコンサート活動を行った。アルバムでは「花の首飾り」を瞳を除くメンバーで新録音している。また、本人たち出演のカラオケ「DAM」では、沢田と瞳を除く4人が出演している。1989年には、大阪城ホール及び横浜アリーナで開かれた「タイガース・メモリアル・クラブ・バンド」コンサートに瞳を除く5人のタイガースでトリで出演。ジョイント演奏コーナーが大半を占める中、単独で数曲を演奏した後に、「シーサイド・バウンド」で他の出演者も加わって演奏し、フィナーレへと進んだ。1993年には森本、加橋、シローに岩本恭生を加えた構成で「ザ・タイガースマニア」というユニットで活動しシングルをリリースしている。1997年には、森本、一徳、沢田がロックユニット「TEA FOR THREE」を結成し、CDシングルを発売、ラジオ番組のパーソナリティなども務めたが現在は活動を休止している。2003年には、解散後、ザ・タイガースの元メンバーと一切の交流を絶ち、古文・中国語関連の参考書の著者および慶應高校の教師として中国語教育に力を入れていた瞳に捧げ、沢田と一徳が作詞を手がけた曲「Long Good-by」が、森本率いる「森本太郎とスーパー・スター」のオリジナル曲として発表された。また、沢田自身もこの曲を2008年9月24日に出演した『SONGS』(NHK総合テレビジョン)にて歌唱している。元マネージャーの中井國二の尽力や、瞳の心境の変化、そしてこの曲による呼び掛けがきっかけとなり、その年の暮れに沢田、一徳、森本と瞳が38年振りに東京で再会を果たし、翌年には加橋と瞳も再会した。2011年9月8日に開始された沢田研二の2011年 - 2012年ライブツアー(全公演38回)に岸部一徳、森本太郎、瞳みのるがゲスト参加することが決定した。当初このツアーは、ザ・タイガースの再結成ツアーとして企画されたが、ツアー開始前に加橋より参加出来ない旨の連絡を受けて、沢田のツアーに元メンバーの3人が参加するという形となった。切符の発売当日に、大都市開催分は即日完売となり、特に瞳の40年ぶりの参加が大きなインパクトとなった。そして2012年1月24日の沢田研二ライブツアー最終日(日本武道館)にて、岸部四郎が脳梗塞で2003年に倒れてから療養中の躰を押してゲストとして登場、第二期ザ・タイガースが1971年1月24日の解散ライブ以来勢揃いした。結果的に、これが翌年のオリジナルメンバーによるザ・タイガース再結成へとつながっていく。※ サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル(ザ・タイガース、沢田研二&オールウェイズ)1981年、カセットのみで発売されたが、1996年3月21日に初CD化。※再結成期

出典:wikipedia

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