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加古 (重巡洋艦)

加古(かこ)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。古鷹型重巡洋艦(古鷹型一等巡洋艦)の2番艦。時には加古型(加古級)と表記されることもあった。世界に先駆けて20cm砲を採用した巡洋艦である。1942年(昭和17年)8月8日の第一次ソロモン海戦で活躍した後、その帰路に米潜水艦の雷撃により沈没した。加古の艦名は兵庫県を流れる加古川に因んで命名された。当初は川内型軽巡洋艦(二等巡洋艦)として建造される予定であったが、ワシントン軍縮会議の結果、1922年(大正11年)3月17日建造中止の通達があった。その後、艦型・艦種類は一等巡洋艦に変更となったが、二等巡洋艦時の艦名が流用されたため、重巡洋艦に山の名を付ける帝国海軍の慣例に反し例外的に川の名が付けられた。なお、最上型重巡洋艦及び利根型重巡洋艦は日本海軍の内規上は二等巡洋艦であり、河川名で新規竣工した一等巡洋艦は「加古」が唯一である。大正時代の帝国海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷)。1921年(大正10年)3月19日、建造予定の二等巡洋艦4隻(川内型軽巡洋艦)に、それぞれ河川名より加古、那珂、川内、神通の艦名が与えられた。6月9日、軽巡4隻(加古、那珂、川内、神通)は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録。川内は1922年(大正11年)2月16日(長崎三菱造船所)、那珂は同年6月10日(横浜船渠)、神通は同年8月4日(神戸川崎造船所)、それぞれ各造船所において起工した。一方、佐世保工廠で建造予定の『加古』は、1922年(大正11年)3月17日、上述のように軽巡洋艦としての建造は中止された。10月9日、『加古』を一等巡洋艦として川崎造船所で建造する事が正式に決まる。これをもって『加古』は二等巡洋艦から一等巡洋艦に類別変更された。また一等巡洋艦の建造艦名は1番艦衣笠、2番艦古鷹を予定していたが、加古の艦名流用により1番艦は加古へ、衣笠の建造は一等巡洋艦3番艦へ先送りされた。軍艦 加古は1922年(大正11年)年11月17日、川崎重工業神戸造船所において起工。1924年(大正13年)1月23日、神戸川崎造船所で青葉型2番艦衣笠が起工。3艦(神通、加古、衣笠)は並行して建造された。1925年(大正14年)4月10日、同造船所で建造中の川内型軽巡洋艦2番艦神通艤装員や、梨本宮守正王列席の元で進水する。9月18日、日本海軍は後藤章大佐(前職第1駆逐隊司令)を加古艤装員長に任命。川崎造船所に加古艤装員事務所を設置し、9月28日より事務を開始する。だが諸事情により就役が遅れた。竣工直前にクレーン事故で船体を損傷したのが原因とされる。1926年(大正15年)3月2日、加古艤装員事務所を神戸川崎造船所から加古艦内に移転(当時、本艦は呉海軍工廠第三船渠入渠中)。再び神戸に戻ったあと、7月20日に受領。後藤章大佐(加古艤装員長)は制式に加古艦長(初代)となる。初代幹部は、香椎哲二郎中佐(加古副長)、澤田実少佐(加古砲術長)、鈴木義尾少佐(加古航海長)、仲村保造少佐(加古水雷長)、古村啓蔵中尉(加古乗組)、中川清海機関中佐(加古機関長)。同日附で艤装員事務所を撤去。姉妹艦古鷹の受領(3月31日)より約4ヶ月遅れての完成だった。古鷹型・青葉型計4隻のうち、加古・衣笠は神戸川崎造船所で、古鷹・青葉は三菱長崎造船所で建造された。9月25日、長崎造船所でおこなわれた青葉の進水式には皇族(昭和天皇弟宮)の高松宮宣仁親王(当時、海軍少尉として古鷹乗組)が立ち会っており、御召艦任務のため第五戦隊(加古、古鷹、川内、由良)も青葉進水式に参加する(親王は古鷹乗艦)。正午過ぎ、青葉の進水式は無事に終了した。こうして竣工した一等巡洋艦青葉型(青葉、衣笠)は、加古級(古鷹型)20㎝単装砲塔六門に対し、最初から20㎝連装砲塔3基六門という配置となっている。これが建造当初の加古型(古鷹型)と青葉型の外見上相違点となった。のちに古鷹型(加古、古鷹)も近代化改装の際に20.3㎝連装砲塔3基六門へ換装している。後日、ロンドン海軍軍縮会議の結果『ロンドン海軍軍縮条約』が1930年(昭和5年)10月2日に締結されて日本が批准すると、加古型(古鷹型)・青葉型の4隻(加古、古鷹、青葉、衣笠)は甲巡洋艦(重巡洋艦)に定義され、これにともない日本海軍の「一等巡洋艦・二等巡洋艦」の定義も変更された。1926年(大正15年)7月20日、加古は竣工と共に横須賀鎮守府籍となる。8月1日、加古は第五戦隊(古鷹、川内、由良)に編入され、古鷹より旗艦を継承する。第五戦隊は4隻(重巡《加古、古鷹》、軽巡《川内、由良》)編制となった。9月25日、第五戦隊は青葉の進水式に参加(前述)。12月1日、同日附で第五戦隊は再編され、古鷹型重巡2隻(古鷹、加古)、川内型軽巡洋艦2隻(神通、那珂)となる。加古はほぼ一貫して第五戦隊旗艦の任にあった。同日附で加古副長は香椎中佐から井沢春馬中佐に交代1927年(昭和2年)8月24日、島根県の美保関沖で行われた第八回基本演習(夜間無灯火演習)において第五戦隊(第1小隊《加古、古鷹》、第2小隊《神通、那珂》)および第二水雷戦隊(旗艦夕張)は夜間雷撃訓練を実施することになった。乙軍は、加藤寛治連合艦隊司令長官率いる長門型戦艦(長門、陸奥)以下戦艦部隊を仮想敵(甲軍)にみたてて接近中、戦艦部隊(伊勢、日向)・第六戦隊(由良、龍田)等から照射を受けた五戦隊第2小隊(神通、那珂)は距離をとるべく右に転舵。すると2隻は後続していた第1小隊(加古、古鷹)および第26駆逐隊、第27駆逐隊(菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ込んだ。神通と第27駆逐隊2番艦蕨が衝突(蕨は沈没)、それを避けようとして左に転舵した那珂は同駆逐隊3番艦葦と衝突、両艦とも大破した。第五戦隊第1小隊(加古、古鷹)は各艦(伊勢、鬼怒、阿武隈、由良、龍田)等と協力して沈没艦と損傷艦の救援に従事した。その後、自力航行可能だった那珂は2隻(比叡、古鷹)に護衛され、加古は戦艦金剛および同艦に曳航される神通を護衛し、葦は阿武隈に曳航され、それぞれ舞鶴へむかった。12月26日、事件当時の神通艦長水城圭次大佐は自決した。これを美保関事件という。11月15日、加古艦長は後藤章大佐から吉武純蔵大佐(馬公要港部参謀長)に交代(後藤は12月1日より横須賀防備隊司令。戦艦榛名艦長、第一水雷戦隊司令官、第二水雷戦隊司令官等を歴任)。水城大佐自決前の12月1日、第五戦隊に青葉型2隻(青葉、衣笠)が編入され、第五戦隊は一等巡洋艦4隻(加古、古鷹、青葉、衣笠)を揃えた。旗艦は加古から衣笠に交代している。同日附で井沢春馬中佐(加古副長)は戦艦陸奥副長に転任(後任の加古副長は後藤輝道中佐)。澤田實少佐(加古砲術長)は空母赤城砲術長に転任(後任の加古砲術長は山城副砲長丸茂邦則少佐)。加古水雷長も仲村保造少佐から池内正方少佐に交代した。1928年(昭和3年)12月10日、吉武大佐(加古艦長)は横須賀防備隊司令へ転任、川内型2番艦神通艦長秋山虎六大佐が加古艦長に補職される。加古砲術長も丸茂少佐から西尾不二彦少佐(神通砲術長)に交代した。1929年(昭和4年)5月2日、イギリス王室グロスター公爵ヘンリー王子がケント級重巡洋艦サフォークに乗艦して来日(横浜着)、第五戦隊2隻(加古、古鷹)はサフォークを出迎えた。3隻(加古、古鷹、サフォーク)の乗組員は互いの艦を見学するなどして交流の機会を持っている。あるイギリス士官の感想は「斯うした窮屈な艦を日本が造り得るのはせいぜいあと十年だらう。今に国民の生活程度が向上してこんな住居(すまゐ)には堪えられなくなる時が日本にもやがて来るに違ひない。」だった。11月7日、古鷹は第五戦隊から除かれた。第五戦隊は重巡3隻(加古、衣笠、青葉)となった。11月30日、秋山(加古艦長)は海軍航空本部教育部長へ転任。海軍大学校教官近藤信竹大佐が後任の加古艦長となる。幹部も大幅に異動し、加古副長太田泰治中佐は戦艦榛名副長へ転任(後任は軽巡大井副長中村一夫中佐)。池内正方少佐(加古水雷長)も榛名水雷長へ転任(後任の加古水雷長は三好輝彦少佐)。加古航海長は有賀武夫少佐から土井高少佐に交代。1930年(昭和5年)6月18日、近藤信竹大佐は海軍軍令部参謀へ転任、同参謀の中村亀三郎大佐が加古艦長となる(近藤は太平洋戦争時の第二艦隊司令長官)。12月1日、2隻(加古、衣笠)は第五戦隊より除かれ、予備艦に指定。かわりに「古鷹」が第五戦隊に復帰。第五戦隊は重巡2隻(青葉、古鷹)となる。同日附で中村大佐は長門型1番艦長門艦長に補職。子爵井上勝純大佐(装甲巡洋艦磐手艦長)が後任の加古艦長となる。また中尾八郎少佐(加古砲術長)は重巡足柄砲術長へ転任(後任の加古砲術長は軽巡木曾砲術長市村茂松少佐。加古水雷長も三好輝彦少佐から市来正雄大尉に交代。後日、三好大佐は長門型2番艦陸奥艦長に補職、陸奥の爆沈時に戦死した。1931年(昭和6年)5月15日より、加古は横須賀海軍工廠で整備と装備の改善を実施。6月下旬、ドイツの軽巡エムデンが来日し、日本海軍関係者はドイツの技術に注目した。そこでエムデンと同時期に完成した『加古級巡洋艦』との交換見学会が開かれた。保守的な鋲構造の加古型(および日本海軍軍艦)に対し電気溶接を多用したドイツの軽巡エムデンに、見学者達は大きな興味を抱いている。また加古級には昭和天皇も注目しており、以前実施された扶桑型戦艦山城を御召艦とした小笠原諸島~奄美大島方面の航海が好評だったことから、古鷹型(加古、古鷹)のどちらかを御召艦として八丈島へ行幸する計画も立案された。だが、天皇が加古型(古鷹型)を御召艦とする機会はなかった。9月29日、加古は横須賀工廠を出渠。10月1日附で呉鎮守府籍となる。11月10日から呉海軍工廠に入渠した。12月1日、加古艦長は井上勝純大佐から長良型6番艦阿武隈艦長古賀七三郎大佐に交代。1932年(昭和7年)4月4日、江風型駆逐艦2隻(江風、谷風)の残務処理事務所を加古艦内に設置する。5月31日、加古は出渠。11月1日附で第1予備艦に指定。12月1日、2隻(加古、衣笠)は第五戦隊に編入される。第五戦隊は重巡3隻(青葉、加古、衣笠)となった。同日附で加古艦長は古賀大佐から馬公要港部参謀長水戸春造大佐に交代。1933年(昭和8年)3月11日、当時の加古副長は林蓉齋中佐から左近允尚正中佐に交代。5月20日、第五戦隊は当分編制しないことなり、重巡3隻(加古、青葉、衣笠)は第六戦隊を編制。11月15日、加古は第六戦隊より除かれ、第2予備艦に指定。かわりに「古鷹」が第六戦隊に編入されて同隊は重巡3隻(古鷹、衣笠、青葉)となった。同日附で水戸春造大佐(加古艦長)は戦艦榛名艦長へ転任。大湊要港部参謀長横山徳治郎大佐が加古艦長に補職。また加古副長も左近允尚正中佐から森良蔵中佐(当時軽巡那珂副長)に交代した(太平洋戦争後半、左近允少将は第十六戦隊司令官として青葉座乗。終戦後、ビハール号事件により刑死した。)。12月11日、本艦は呉警備戦隊に編入。1934年(昭和9年)2月1日、第1予備艦に指定。同日附で妙高型重巡洋艦2番艦那智より呉警備戦隊旗艦を引き継ぐ。3月15日、呉警備戦隊旗艦は加古から神通に交代。5月22日、呉警備戦隊旗艦は長良型軽巡洋艦6番艦阿武隈から加古に変更。7月1日、呉警備戦隊旗艦は重巡加古-駆逐艦敷波-軽巡阿武隈と変わる。7月9日、阿武隈から加古に戻った。7月17日、加古から神通に変更。7月20日、第四艦隊(旗艦伊勢)の再編に伴い、第五戦隊は重巡3隻(足柄、羽黒、加古)で再編。11月10日より佐世保海軍工廠に入渠、11月15日より第3予備艦となる。引続き呉警備戦隊に所属。同日附で加古艦長は横山徳治郎大佐から舞鶴要港部港務部長柏木英大佐に交代。1935年(昭和10年)2月25日、佐世保工廠を出渠。5月20日、呉工廠に入渠。7月18日、呉警備戦隊旗艦は天龍から加古に変更される。7月28日、最上型巡洋艦1番艦最上が竣工し、呉警備戦隊に編入された。8月5日、呉警備戦隊旗艦は加古から最上に変更。2日後、再び「加古」に戻る。8月10日から11日、8月24日から25日にかけても、最上は加古より呉警備戦隊旗艦を引き継ぐ。11月15日、加古艦長は柏木英大佐から藍原有孝大佐(当時、軽巡球磨艦長)に交代。1936年(昭和11年)7月1日、加古艦長は藍原大佐から駐満海軍部参謀長大島乾四郎大佐に交代。同月、加古は大阪鉄工所(日立造船)において、主砲を換装する近代化改修に入る。12月1日、大島大佐(加古艦長)は高雄型重巡4番艦摩耶艦長へ転任。軽巡名取艦長岡村政夫大佐が後任の加古艦長となる。1937年(昭和12年)12月1日、岡村政夫大佐(加古艦長)は呉鎮守府出仕。出雲型装甲巡洋艦1番艦出雲艦長鎌田道章大佐が加古艦長に補職される(岡村は翌年4月より姉妹艦古鷹艦長)。12月27日、改装工事完成。1938年(昭和13年)10月20日、加古艦長は鎌田道章大佐から緒方眞記大佐に交代。1939年(昭和14年)5月1日、緒方大佐(加古艦長)は出雲型2番艦磐手艦長へ転任。重巡古鷹艦長伊藤皎大佐は、古鷹艦長と加古艦長の兼務を命じられた。7月1日、長良型軽巡洋艦1番艦長良艦長江戸兵太郎大佐が加古艦長に任命され、伊藤大佐(古鷹艦長)は艦長兼務を解かれた。11月15日、利根型重巡洋艦2隻(利根、筑摩)で編制されていた第六戦隊(司令官清水光美少将)は、古鷹型2隻(加古、古鷹)で再編。新任の第六戦隊司令官は田結穣少将。第六戦隊旗艦は加古に指定される。また利根型2隻(利根、筑摩)は第八戦隊を再編(司令官後藤英次少将)。第八戦隊旗艦は利根に指定された。同日附で江戸兵大佐(加古艦長)は軽巡夕張艦長へ転任(後日、江戸は第三水雷戦隊司令官や第三十一戦隊司令官を歴任。旗艦霜月沈没時に戦死)。知床型給油艦石廊特務艦長堀江義一郎大佐が加古艦長に補職される。大湊防備隊分隊長梶本顗大尉も加古水雷長に任命された。1940年(昭和15年)10月11日、紀元二千六百年特別観艦式において昭和天皇は御召艦比叡(金剛型戦艦2番艦)に座乗、本艦は供奉艦(先導艦《高雄》、供奉艦《加古、古鷹》)として参列した。10月15日、加古艦長は堀江大佐から木下三雄大佐に交代。石廊特務艦長高橋雄次大佐(加古沈没時艦長)は軽巡天龍艦長に補職されている(後任の石廊特務艦長は猪口敏平大佐。戦艦武蔵沈没時艦長)。11月15日、第六戦隊に「青葉」が編入。1941年(昭和16年)3月1日、衣笠が第六戦隊に編入。第六戦隊旗艦は3月下旬に一時加古から古鷹に変更。続いて加古から青葉に替わるが、4月10日に加古に戻った。8月12日、第六戦隊旗艦を青葉に変更。加古は呉に移動した。8月20日、加古砲術長樋口貞治中佐は戦艦霧島砲術長へ転任。戦艦榛名副砲長西村春芳少佐が加古砲術長に補職。また加古水雷長梶本覬少佐は峯風型駆逐艦10番艦夕風駆逐艦長へ転じ、陽炎型駆逐艦4番艦親潮水雷長米井恒雄大尉が加古水雷長となる。梶本は汐風艦長を経て、睦月型駆逐艦3番艦弥生駆逐艦長(沈没時)、夕雲型駆逐艦19番艦「清霜」駆逐艦長(沈没時)等を歴任した。9月15日、第六戦隊司令官は牧田覚三郎少将から第二水雷戦隊司令官五藤存知少将に交代(後任の第二水雷戦隊司令官は田中頼三少将)。五藤少将は正式に第六戦隊旗艦を「加古」から「青葉」に変更。各艦の隊番号も変更された。また木下三雄大佐(加古艦長)は扶桑型戦艦2番艦扶桑艦長へ転任。8月28日まで天龍艦長を務めた高橋雄次大佐が、加古艦長に任命された。昭和6年~7年(飛行機滑走台をカタパルトに換装、8㎝高角砲を12㎝高角砲へ換装等)と、昭和11年~14年(主砲を単装砲塔から連装砲塔へ換装、混焼罐二基をやめて機関出力を強化、魚雷発射管の換装、射撃・航海諸装置の換装等)の近代化改装により、古鷹型重巡洋艦(古鷹、加古)は第一線級の戦力を保持していた。1941年(昭和16年)11月30日夜、内地から小笠原諸島へ向かう第六戦隊は、空母改装のため横須賀へ向かう潜水母艦大鯨(龍鳳)とすれ違った。太平洋戦争開戦時、第六戦隊は司令官五藤存知少将、青葉型重巡洋艦2隻(青葉、衣笠)、古鷹型重巡2隻(加古、古鷹)という戦力で構成され、第1小隊(青葉、加古)・第2小隊(衣笠、古鷹)という編制だった。さらに第六戦隊は、第四艦隊(南洋部隊)(司令長官井上成美中将:旗艦鹿島)の指揮下にあった。12月8日の開戦と共に、第六戦隊はグアム島攻略に参加する。続いてウェーク島占領に向かった日本軍・第六水雷戦隊(旗艦夕張)と天龍型軽巡洋艦2隻(天龍、龍田)の第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将は昭和2年当時の加古砲術長)がウェーク島第一次攻略戦で撃退された事に伴い、山口多聞少将率いる第二航空戦隊空母2隻(蒼龍、飛龍)、阿部弘毅少将率いる利根型重巡2隻(利根、筑摩)、第17駆逐隊(谷風、浦風)と共に12月21日から25日にかけてウェーク島第二次後略戦に参加する。この戦いで第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)が発砲することはなかった。1942年(昭和17年)1月-2月上旬にラバウル攻略、3月上旬はラエ・サラモア方面攻略作戦、4月上旬はブーゲンビル島方面およびアドミラルティー攻略作戦等、南方・ソロモン諸島を転戦する。5月上旬には珊瑚海海戦にも参加した。第六戦隊司令官五藤少将はMO攻略部隊指揮官となり、MO攻略部隊(第六戦隊《青葉、加古、衣笠、古鷹》、駆逐艦《漣》、空母《祥鳳》)を指揮する。5月7日、祥鳳がアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃で撃沈され、生存者は漣に救助された。5月8日、第六戦隊第1小隊(青葉、加古)は引き続きMO攻略部隊として行動し、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊に編入され、第五戦隊(妙高、羽黒)や第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)と第五航空戦隊の空母2隻(翔鶴、瑞鶴)を護衛している。加古水上偵察機1機が行方不明になったが、特設水上機母艦神川丸に救助されており、後日母艦に戻ってきた。5月11日、アメリカ潜水艦に雷撃された敷設艦沖島の救援におもむくが、沖島は駆逐艦睦月による曳航中に沈没した。珊瑚海海戦の結果、日本海軍のポートモレスビー作戦は当分中止となった。それにともない第六戦隊各艦は日本本土へ回航され、整備に従事した。第1小隊(青葉、加古)は5月22日、呉入港。6月5日、日本海軍はミッドウェー海戦で大敗。連合国軍の重用拠点ポートモレスビーの攻略とソロモン諸島における基地航空兵力の拡充は急務とされた。そこで第四艦隊(司令長官井上中将)は『SN作戦』(南太平洋方面の航空基地適地調査・設営・各航空基地強化)と『「リ」号研究作戦』を下令。ガダルカナル島航空基地の設置、ラエ、カビエン、ツラギ、ラバウル各基地の強化、またソロモン諸島航空基地適地の捜索等の諸任務に、第六戦隊・第十八戦隊(天龍、龍田)・第六水雷戦隊(夕張、第29駆逐隊《追風、夕月》)・第30駆逐隊(睦月、望月、卯月)等を投入する。6月16日、第六戦隊第1小隊(青葉、加古)は呉を出撃、第十八戦隊(天龍、龍田)と合流後にトラック泊地へ向かい同月23日に到着。到着直前、対潜哨戒に出撃した加古水上偵察機(1号機、搭乗員3名)が不時着、開戦以来初の戦死者をだす。トラック泊地にはミッドウェー海戦で大破した重巡最上(当時艦長曽爾章大佐、海兵44期)が停泊しており、加古艦長の高橋大佐は海軍兵学校同期の曽爾艦長を訪問している。6月30日、第六戦隊第1小隊(青葉、加古)は第十八戦隊と共にトラックを出撃。しばらくソロモン諸島方面を行動した。7月10日、六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)が合流する。当時の軽巡夕張以下第六水雷戦隊はガダルカナル島の基地設営輸送船団を護衛しており、第六戦隊はその支援に任じた。7月14日、連合艦隊第二段作戦第二期の兵力部署改編により、第六戦隊・十八戦隊・各駆逐隊は第八艦隊(司令長官三川軍一中将:旗艦鳥海)を基幹とする外南洋部隊に編入される。27日、第八艦隊は第四艦隊より外南洋部隊の指揮権を継承した。1942年(昭和17年)8月8-9日、第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)は第一次ソロモン海戦に参加し、アメリカの重巡アストリア("USS Astoria, CA-34")、ヴィンセンス("USS Vincennes, CA-44") へ打撃を与え、クインシー ("USS Quincy, CA-39") およびオーストラリアの重巡キャンベラ("HMAS Canberra") の撃沈に貢献した。加古の砲弾消費は主砲192発、高角砲124発、25㎜機銃149発、魚雷10本だった。また偵察のため発進させていた水上偵察機も未帰還となった。この戦闘で加古は損害を被ることはなかったが、帰還中の8月10日にアメリカの潜水艦S-44に捕捉された。当時、第八艦隊旗艦鳥海、軽巡2隻(天龍、夕張)、駆逐艦夕凪はラバウルやショートランド泊地に向けて回航中で、第六戦隊4隻のみニューギニア島・カビエンに向かっていた。到着まで数時間程の行程で、戦闘航海3日目のため各艦とも疲労の頂点に達していたという。同日午前7時、海上は視界40kmで平穏、六戦隊は第1小隊(青葉、加古)と第2小隊(衣笠、古鷹)の小隊並陣・各艦距離800mで速力16ノットを発揮、青葉水上偵察機1が前路哨戒を行っていたが、之字運動(対潜警戒運動)は実施していなかった。「S-44」は約650m(700ヤード)の距離から4本の魚雷を発射、そのうち3本(S-44側は4本命中と判定)が命中した。外二軸運転のため舵の効きが悪く、回避は難しかった。7時9-10分より加古は被雷、1発目は加古の一番砲塔右舷に命中、2発目及び3発目は加古の弾薬庫及び缶室の近くに命中し7時15分に加古は右舷へ転覆し、沈没した。沈没地点。当時の加古には准士官以上54名・下士官兵660名・傭人4名が乗艦しており、このうち准士官以上6名・下士官兵61名の計67名(傭人1名を加えた場合は68名)が戦死した。第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠)は爆雷投射をおこなったのち、装載艇を放出してカビエンへ避退した。第六戦隊姉妹艦の空気は一気に沈痛なものになったという。加古の沈没の一報をうけて宇垣纏連合艦隊参謀長は戦藻録に『道は九十九里を以て半すとの格言に相當するに非ざるか』と記録。チェスター・ニミッツ(当時太平洋艦隊司令長官)は潜水艦による加古喪失の効果について『アメリカ軍の惨敗をとにかく埋め合わせた』、『後日、日本海軍が東京急行に水上兵力を投入するにあたり、ずっと慎重で消極的な方法をとらせることになった』と指摘している。高橋雄次大佐(加古艦長)を始めとする生存者650名は艦載艇に分乗し、一旦シンブリ島へ上陸した。翌日、駆逐艦卯月(第30駆逐隊)と舟艇3隻に便乗してカビエンへ向かい、六戦隊姉妹艦に収容されている。さらに特務艦石廊に乗船し、ラバウルへ向かった。加古生存者のうち一部は、第一次ソロモン海戦で戦死者を出した重巡「鳥海」に補充要員として配属された。加古主計長は横須賀で改装中の空母龍鳳(大鯨)の主計長となった。9月1日、高橋雄次大佐は横須賀鎮守府附となる。9月7日、旅順方面特別根拠地隊参謀兼副長に補職。後日、最上型重巡洋艦3番艦「鈴谷」艦長に任命された。9月15日、「加古」は軍艦籍より除籍。約1ヶ月後の10月11日-12日、サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)で日本海軍は米艦隊に対し失態を演じた。本海戦で重巡1隻・駆逐艦3隻(古鷹、吹雪、夏雲、叢雲)を喪失し、青葉が大破、六戦隊司令官五藤存知少将も戦死した。11月10日附で第六戦隊は解隊、健在だった衣笠は第八艦隊直属、修理を要する青葉は呉鎮守府部隊に編入された。同日附で2隻(重巡《古鷹》、空母《龍驤》)は軍艦籍より除籍された。11月14日、第三次ソロモン海戦に参加した衣笠はアメリカ軍機の空襲により沈没(衣笠艦長戦死)。第六戦隊に所属した重巡計4隻は加古沈没から約4ヶ月で青葉1隻を残すのみとなった。

出典:wikipedia

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