DOS/V(ドスブイ)は、1990年に日本アイ・ビー・エムが発表したパーソナルコンピュータ用のオペレーティングシステムの通称である。PC/AT互換機上で稼働し、専用のハードウェアを必要とせずに、ソフトウェアだけで日本語表示を可能にした。1991年にはマイクロソフトの日本法人なども発表し、日本でPC/AT互換機が一般に普及する切っ掛けとなった。転じて、日本語ではPC/AT互換機のことを指して「DOS/V」と呼ぶこともある。「DOS/V」は当初は「VGA対応の(MS-)DOS」(正確(IBM的)にはPC DOS)の意味だったが、後に「可変(Variable)」などの意味も追加された。後に「DOS/V」と呼ばれる最初の製品の正式名称は「IBM DOS J4.0/V」であり、並存したPS/55専用の「IBM DOS J4.0」(通称 JDOS)と比較すると「/V」が追加されていた。このため日本IBM社内では当初は「スラブイ」とも呼ばれた。「DOS/V」は当時のパソコン通信であるNIFTYや日経MIXなどのネットワーカーによる命名とされる。「V」は「VGA」(最大画面解像度は640x480ピクセル)の意味であったため、DOS/V初期の日本IBMのインタビューや資料には「XGA(最大画面解像度が1024x768)対応のDOS/X、モバイル端末用のCGA対応のDOS/C」などの表現も見られた。また「V」は「Victory」との解釈、「DOS/V」を「DOSバージョン5」との誤解もあった。日本IBMが「DOS/Vは登録商標にしない、自由に使用して欲しい」と宣言した事もあり「DOS/V」の通称は広く普及した。後にDOS/V上で複数の画面解像度を実現するV-Textも登場し、日本IBMでDOS/Vを主導した堀田一芙は雑誌インタビューなどで「VはVariable(可変)などと解釈してください」とも説明した。当時最も普及していた日本電気(NEC)のPC-9800シリーズに対し、DOS/Vが動作するPCであるPC/AT互換機が「DOS/Vマシン」「DOS/V機」と呼ばれたこともあり、本来の言葉の意味からすると誤用ではあるが、PC/AT互換機のハードウェアを指して(搭載されているOSがWindowsのみでも)「DOS/V」と呼ぶ用例がみられる。PC/AT互換機の部品の販売店が「DOS/Vショップ」と呼ばれる、など(例:DOS/V POWER REPORT、ドスパラ(旧DOS/Vパラダイス))。Windowsが普及して以降は、「Windows(マシン)」が同じ意味で用いられている。世界的には1981年のIBM PC登場後、ほぼ数年でIBM PC互換機がパーソナルコンピュータ市場のデファクトスタンダードとなった。しかし日本では日本語表示の性能確保のためにIBM PCのシリーズは発売されず、日本IBMを含め各社から独自の日本語表示用のハードウェアを搭載したパーソナルコンピュータが発売された。このため、同じインテルのx86系のCPUとMS-DOSを採用しながらもIBM PC互換機と相互に互換性が無い時代が続いた。NECのPC-9800シリーズがほぼ寡占状態で、他は富士通のFMRシリーズ、日本IBMのマルチステーション5550シリーズおよびJX、東芝のJ-3100シリーズおよびダイナブック、三洋電機やシャープ・日立製作所・三菱電機などのAX陣営などに分かれ、日本国内の機種間でもほとんど互換性は無かった。背景には日本ではハードウェアメーカーが強く独自の系列と販売網を築いていたこと、ユーザーも「メーカー保証」を求めたことがあった。しかし、海外のハードウェアやソフトウェアのメーカーにとっては日本市場への参入障壁であり、日本のメーカーにとっては日本国内と海外への重複投資であった。また、ユーザーにとっては互換性の壁となり、海外最新技術の導入時間差や内外価格差でもあった。DOS/VはPC/AT互換機で稼働し日本語表示をソフトウェアのみで実現したため、日本にPC/AT互換機が普及する契機となった。日本語表示をソフトウェアのみで行う事自体はマルチステーション5550初期モデルなどに前例があるが、当時のハードウェアの性能向上によりソフトウェアによる日本語表示が実用的になったといえる。1990年10月、日本IBMがPS/55シリーズで初めてVGAのみを搭載した機種(ラップトップ2代目である5535-S)と、それに対応したOS「IBM DOS バージョンJ4.0/V」を発表した。これがDOS/Vの最初のバージョンになった。DOS/V登場時のマイナーバージョンは「J4.05/V」であった。しかし他のPS/55の画面解像度(主流は1024x768ピクセル、初代ラップトップは720x512)に対して5535-SはVGA(640x480)など、「低スペックで互換性の低い専用OS」と思われマスコミでも雑誌でもほとんど注目されなかった。しかしパソコン通信などで「PC/AT互換機でも動いて日本語表示ができた」など実績報告が続出し話題となった。ただし当時はPC/AT互換機自体が日本国内にほとんど無く、システムディスクの5.25インチフロッピーディスクへの変換や日本語キーボードの問題に加え、メモリマネージャとして別途QEMM386等が必要、BIOSやビデオカードの相性の問題も発生するなどマニア(人柱、廃人とも呼ばれた)の世界であった。しかし日本IBMは非公式にこれら情報を見ては他社のPC/AT互換機で動く改善を繰り返しては情報提供した(英語キーボードのサポート、当時有力なVGA互換グラフィックチップであるET4000で正常表示できる隠しオプション "$DISP.SYS /HS=LC" の追加など)。このためマイナーバージョン「J4.07/V」の頃には大半のPC/AT互換機で正式保証は無いが実用的に稼働するようになった。日本IBMはPS/55note(後のThinkPad)などDOS/V対象機を拡大し国産各社にもDOS/Vの採用を働きかけたが、大半のメーカーは従来通りマイクロソフトからの提供を希望した。しかしマイクロソフトは当時既にOS/2やMicrosoft Windows NTなどをめぐりIBMとは競合関係にあり、マイクロソフト版DOS/Vを当初はAXベースで三洋電機と開発・テストした。これはソフトウェアのみで日本語表示を実現する事はIBM版と同じだが「AXとの互換性確保のためにIBM版とは互換性が無く、フック多用のため日本語表示性能が大幅に低い」という非公式情報が流れたため雑誌やパソコン通信では署名活動などの反対運動が起き、この開発は中止された。(後に、これとは別にAX VGA/Sがリリースされた。)1991年3月にDOS/Vを中心とした標準化・推進組織であるOADGが設立された。同時に、マイクロソフトには日本IBMから「DOS/Vモジュール」が提供され、DOS/VがMS-DOSとして各社にOEM供給されることが発表された。しかし当初は日本IBMが情報の公開方法について曖昧な態度を見せたり、OADG仕様の決定権を持つ日本IBMとAX環境との両立を要求するAX陣営との間で調整が長引いたりと、足並みは揃わなかった。また、日本語入力システムのインターフェイス仕様をめぐって日本IBMとマイクロソフトの間で折り合いが付かず、DOSバージョン5.0の開発が遅れる事態になった。1991年から1993年にかけて、NECを除く国産各社はDOS/Vに移行した。東芝やAX陣営はオプションでDOS/V環境を用意することから始まり、やがて主力を純粋なDOS/V機に移行。また、富士通、エプソンダイレクト、プロサイドなどがOADGへの参加を表明してDOS/V機を発売。平行して台湾のマイタック、ASTリサーチ、コンパック、デル、ゲートウェイなどの外資系各社もDOS/Vを搭載して日本市場に本格参入した。特にコンパックの低価格マシン投入は「コンパックショック」とも呼ばれ、FMVは標準搭載ソフトの多さと割安感でシェアを拡大した。またIBMはDOS/V専用シリーズのPS/V(後のAptiva)、セガはメガドライブとの両互換機であるテラドライブを発売した。NECは、それからもPC-9800シリーズ(および派生機種)の開発・販売を続け、とうとうDOS/V対応機を国内販売しなかった。国内向けをPC/AT互換機系列であるPC98-NXシリーズに移行したのは、のちのWindows 9xの時代であり、サーバーのExpress5800シリーズにPC/AT互換機系列の機種を投入したのもWindows NTの時代になってからである(前者の派生機種であるFC98-NXの一部機種でPC DOS 2000の動作を保障している例外を除き、両シリーズともDOS/Vでの動作を保障していない)。秋葉原では、従来はPC/AT互換機の一般向けの輸入・組立販売店は小規模店舗が少数だったが、DOS/V搭載の「DOS/V機」を販売する「DOS/Vショップ」が増加した。DOS/VやAT互換機を中心記事としたDOS/Vマガジン、PC WAVE、DOS/V POWER REPORTなどの雑誌も創刊されて、付録のCD-ROMではDOS/Vの修正モジュール、ドライバー、オンラインソフト、次期バージョンのβ版なども配布された。また1992年にIBMが発表したOS/2 J2.0には、日本語版のDOS互換環境にDOS/Vが含まれ、後にはV-Textにも対応した。国内市場の構図が次第に「PC-98 対 DOS/V」となる中、マスコミ、メーカー、ユーザーなどで以下が比較された。NECは1992年に、従来のPC-9800シリーズをベースとしながらもVGAと同じ画面解像度(640x480)を持つPC-9821シリーズを発売した。更にテキスト画面のスクロール速度をDOS/Vと比較したTVコマーシャルの放映、「ATバスベースなのでPC-98では対応困難」とも言われたPCMCIA(現在の16ビットPCカード)への対応、PCIへの移行、S3の最新SVGAビデオチップのPC/AT互換機よりも早い搭載、そしてWindows 95のサポートなど、DOS/V(PC/AT互換機)を意識した積極的な製品競争を展開したが、PC/AT互換機の最新技術を取り入れてWindows環境に移行するに従い「ユーザーから見れば、もはやWindowsパソコンの1機種であり、中身が独自である必要性が見えず、一番の違いはキーボードだけ」などの意見も増えていった。やがて「残るNECがいつDOS/V(PC/AT互換機)に移行するか」が業界やユーザーの話題となったが、PC-9800シリーズの成長と維持に注力した関本忠弘社長の1994年の交代を経て、1997年にはNECが事実上のPC/AT互換機のPC98-NXシリーズを発売した(NECは「世界標準機」との表現を使用し、マイクロソフトのガイドラインであるPC97/98に準拠していたが、付属するWindowsのCD-ROMには「PC/AT互換機用」と明記されていた)。更に2003年には従来のPC-9800シリーズの受注生産を終了した。この結果、日本も世界と同様に「パーソナルコンピュータはMacintoshを除くとPC/AT互換機」となった。DOS/Vが成功した背景には、当時のPC/AT互換機の内外価格差(80486-33MHz搭載で日本の半額以下など)、各社SVGAなど高速・高解像度なビデオカードの普及、Microsoft Windows 3.xの普及時期、日本IBMのオープン路線(他社PC/AT互換機への対応、OADG設立など)、IBM版と互換性の高いマイクロソフト版DOS/Vの出荷、NEC以外の国産各社の動向(独自でのPC-9800シリーズへの巻き返し困難、独自仕様マシンの今後のWindowsサポート不安、内外二重投資の回避)などが重なった事が挙げられる。一連の過程は「日本市場は日本語の壁で鎖国していたが、DOS/Vにより開国した」と表現される場合も多い。この比喩は更に「江戸時代は藩(大手メーカーによる囲い込み)や身分(企業向け、個人向けなど)で分けられ、自由な往来もできなかったが、近代国家となり統一されて海外とも国内も往来できるようになった」とも言われる。歴史的には、世界的には1981年からの数年間(16ビット、MS-DOSへの移行期)に発生したPC/AT互換機への移行が、日本では遅れて1990年からの数年間(32ビット、Windowsへの移行期)に発生したともいえる。なお、1995年のMicrosoft Windows 95以降では単体のDOSを必要としなくなり、一部の携帯情報端末や制御機器を除きDOS/Vを含めたDOSは主流の座を降りた。DOS/Vを含めたDOS全体で、マイクロソフト版は1993年出荷の「MS-DOS 6.2/V」、IBM版は1998年出荷の「PC DOS 2000」が最終バージョンとなった。しかしMicrosoft Windows 32bit版各バージョン日本語版のコマンドプロンプトで使用されている日本語表示規格は現在でもDOS/Vであり、DOS/V対応のソフトウェアがほぼ稼動する。但し64bit版Windowsでは仕様上DOS対応のソフトウェアには対応しないため、DOS/V対応のソフトウェアも動作しない。またFreeDOSの日本語化の動きとして「FreeDOS/V」が存在する。実際に使われる場面は少なくなったDOS/Vだが、現在も、雑誌名や自作PC系販売店等の固有名詞にDOS/Vを含む名前が残っている。DOS/V登場前の日本のパーソナルコンピュータは、日本語(2バイト文字、特に数の多い漢字)の画面表示のために漢字ROMなどの専用のハードウェアを使用していた。多くの8ビット機(PC-8800シリーズやFM-7/77シリーズ、MZ/X1シリーズ、MSXなど)では独立した漢字VRAMは用意せず、漢字ROMから直接グラフィックVRAMにドットマトリクスを表示する方式を取っていた。この方法は低コストだが描画速度が遅かった。一方、PC-9800シリーズなどの多くの16ビット機や、一部のハイエンド8ビット機(X1 turboシリーズ・MZ-2500など)では、漢字テキスト表示を高速化するためμPD7220等の専用のGDPが用いられた。漢字表示に対応した専用のテキストVRAMである漢字テキストVRAMをグラフィックVRAMとは別に持ち、ハードウェア的に重ねて表示することができた。すなわち、漢字コードに対応した2バイトの数値をテキストVRAMに書き込むだけで、画面表示時にハードウェアが漢字ROMに書き込まれているドットマトリクス(ビットマップ)を自動的に展開してくれるため、i8086やZ80等の非力なCPUでも非常に高速な漢字表示が行えた。この方式ではROMに内蔵されていないキャラクタは表示できないと言う欠点があったが、外字RAM領域を用意することで、数十文字程度であればキャラクタの追加も可能であった。当然ながら、漢字表示に対応したハードウェアやその実装に関するコストは必要である。J-3100シリーズ、AX、PS/55はIBM PC互換機ベースだが、漢字ROMを搭載してそれぞれ独自の日本語モードを持った。なお例外的に、初期のマルチステーション5550ではDOS/V同様に日本語フォントをソフトウェア(ファイル)に持っており、DOS/Vの元祖と言える。ただし、フォントをメモリに展開せず日本語を表示するたびにフロッピーディスクまたはハードディスクにアクセスに行ったため、性能に非常に難があった。DOS/Vは、80286以上のCPUと2MB以上のメインメモリとビデオ表示規格のVGA以上を備えたPC/AT互換機ならば、専用のハードウェアを必要とせずにソフトウェアだけで日本語を表示できるように拡張されたDOSである。なお、オリジナルのPC/ATは80286搭載、メモリ256KB~512KB標準、ビデオ表示規格はEGAが一般的であったため、メモリとVGAアダプターの増設は必要である。DOS/Vは漢字ROMの代わりに日本語フォントファイルを持ち、80286のプロテクトメモリに展開してVGAのグラフィックモード画面(標準では画面解像度640x480ビット)に日本語をビットマップで展開して表示した。つまりDOS/Vの「日本語テキストモード」は実際にはVGAのグラフィックモードを使用しており、その後の拡張性・柔軟性となった。またDOS/Vのもう1つの特徴は、DOSの日本語対応の基本部分をDOS本体(カーネル)の修正ではなくDOS標準の拡張方法であるデバイスドライバにより実現した事にある。つまりDOSの構成ファイル(config.sys)を編集して英語DOSに「DOS/V用のデバイスドライバ(と日本語フォントファイル)」を組み込めば「日本語DOS」となり、外せば戻り、英語DOSのバージョンにかかわらず高い互換性が確保できた。実際に、日本語モードを動的にオフ・オンするchevコマンド、リブートは必要だが完全な英語DOSとなるswitchコマンドも追加された。(DOS/V以前のダイナブック、JX、AXでは英語モードで起動するには専用の英語版DOSが必要だったが、DOS/Vでは英語DOSも内蔵されていた。)またユーザーは必要に応じてデバイスドライバの拡張や交換ができ、後のV-Textに発展した。デメリットはユーザーの使用できるコンベンショナルメモリがデバイスドライバにより圧迫される点であるが、バージョン5のメモリ管理機能向上により緩和された。以下は、DOS/Vの登場時の考え方である。PS/55は80286とプロテクトメモリと1.44MのFDD、VGAが標準で搭載されているPS/2を拡張したパーソナルコンピュータである。そして、当時、最低限表示出来なければならなかった漢字はJIS第一水準の3489文字とJIS第二水準3388文字で、これらを合わせても漢字フォントのサイズは(16dotフォントの場合)高々215KBである。この程度のサイズであればPC DOS 4.0では積極的に利用されていないプロテクトメモリを漢字ROMの代替に用いることは容易である。さらに、ROMよりRAMの方がアクセス速度が高速であるため漢字ROMからグラフィックVRAMへ表示するよりも高速に行える。DOS/Vでは補助記憶装置に置かれた漢字フォントを格納したフォントファイルを起動時にデバイスドライバによりプロテクトメモリ領域に展開し、漢字表示時にそれをグラフィックVRAM領域に転送する方式を取っている。また、デバイスドライバ組み込み時に適切なフォントとキャラクタ番号を指定することで、論理的には全ての文字記号を表示可能である。ただしこのメモリ確保は当初はBIOSのINT 15h手順によるものであったため仮想86モードを使用するVCPIやDPMIとの相性が極端に悪く、FONTXやDOS/Vスーパードライバーズ(後述)、PC DOS J6.1/VでXMSインターフェイスに対応したことで解消された。従来の機種(PS/55の日本語ディスプレイアダプタ搭載機種)にDOS/Vをインストールした場合には標準の構成ファイル(config.sys)では既存の漢字ROMを参照する設定がデフォルトとなり、メインメモリーの常駐量を節約していた。VGA以外の画面解像度や、標準以外の日本語フォント表示などに対応した拡張画面表示の仕様も策定・公開され、日本語表示用の互換ドライバが多数、開発・配布・販売された。最初に、lepton(小山隆史)が1991年にFONTXをフリーソフトウェアとして公開した。これはDOS/V標準のフォントドライバ(IBM版では$font.sys、マイクロソフト版ではjfont.sys)の上位互換のフォントドライバであり、DOS/V標準以外のフォントを使用できた。次に、h.murataがIBM版DOS/Vの標準のディスプレイドライバ($disp.sys)に適用するパッチを日経mixで公開した。これはSVGAの800x600(VESAで標準化された表示規格)で日本語を表示できた。これらはFONTXシリーズと共に、フォントを自由に変えられる上に拡張画面表示を実現するというDOS/Vの可能性を広げるものとなった。更にleptonが公開したDISPS3はDOS/V標準のディスプレイドライバ(IBM版では$disp.sys、マイクロソフト版ではjdisp.sys)の上位互換のディスプレイドライバでS3チップ特化版であり、当時は高画質・高速を誇ったS3のビデオチップ(86C928以前)に特化して、アクセラレータを直接コントロールして高解像度かつ非常に高速な日本語表示ができた、また色々なフォントサイズ(6x12、7x14、8x14、8x16、8x19ドット)を表示でき、点滅カーソルなども使用できた。続いて登場したDISPVは、DISPS3に対して汎用性を持たせた物で、VBE(VESA BIOS Extension)対応のSuperVGA上において640x480および800x600の解像度で表示する事が可能となった。 但しこれらのドライバは利用しようとする解像度ごとのドライバを必要とし、汎用性に欠ける面が有った。そして西川和久率いるシー・エフ・コンピューティング(C.F.Computing)による、FONTX、DISPV、DISPS3などをベースに拡張したドライバーをまとめた「DOS/Vスーパードライバーズ」が、ソフトバンクより書籍(マニュアルと付属のフロッピーディスクの形)として出版された。これらの拡張画面表示の仕組みは当初はHiText(ハイテキスト)とも呼ばれたが、特定の会社(オサム)が登録商標として登録したため以後のDOS/V版はV-Textと呼ばれるようになり、1993年にはIBM本社が公認した国際仕様となり、日本IBMからは「IBM DOS/V Extension」が発売された。これは日本のパソコン通信などのネットワークで生まれ育った規格をIBM本社が正式採用して製品化された出来事であった。IBM DOS/V Extensionでは更なる変更が追加され、ディスプレイだけではなく、プリンタにも日本語印刷のための機能が装備され、当時は当然視されていた日本語フォント搭載のプリンタでなくとも、ドライバさえ有れば日本語でのテキスト印刷が可能になっていた。V-Text用の主なドライバーには以下のフリーウェアや製品がある。これらのドライバーを使用すれば、IBM版DOS/Vだけでなく、マイクロソフト版DOS/Vや、英語版の各社のDOS、更にはOS/2やWindowsのDOS互換環境などもV-Text化することができる。ただし個々の組み合わせ、サポート有無は要確認である。V-Textをサポートした主なソフトウェアには以下がある(サポートするドライバーや画面モードは確認が必要である)。専用のハードウェアを搭載せずにコストを下げると言う方式は、前述のV-Text等の表示の柔軟性と言うメリットをもたらしたが、その表示速度においては、初期のDOS/Vマシンにおいては、画面スクロールや書き換え速度において、PC-9801のほうがどう客観的に見てもかなり高速だった(DOS/Vとの日本語のテキストスクロール速度の比較実演を行ったNECのテレビコマーシャルも放送された)。環境などがまったく異なるのであくまでも参考までに留まるが、大体の実感を留めておくために比較の一例を挙げておく。2004年当時のPC-AT互換機にて、FreeBSD等のコンソールでkonを使用した漢字表示のスクロール速度よりも、そのPC-AT互換機よりも世代が古かったPC-9821の漢字表示の方がきわめて高速なスクロール速度であったという。それは肉眼でその内容を判別できないほどであったといわれている。その秘訣は、PC-9801はCPUがこの漢字を表示しなさいとグラフィックアクセラレーターにかんたんに命令するだけで画面に漢字が表示される。対してDOS/Vは面倒な手続きのあと、いちいちCPUが漢字の綴り方帳を引っ張り出してきては自分の手で漢字を全部画面に書いてやっと表示される、というもので、これでは表示速度に差が出るのは致し方ないことであった。しかしながら実際のDOS上で動作するアプリケーションの多くにおいてはテキスト画面でのスクロール速度においては、ある程度の性能さえ出ていれば充分であり、スクロールしている画面の内容が肉眼では判明できないほどのきわめて高速なスクロールであってもアプリケーションの総合的な性能向上においてはあまり意味を持たなかったことも述べておく。Windows3.xの普及に伴い、CPUの能力も格段に進歩していった。また、Windowsが必要とする各GDIに対応したハードウェアアクセラレート機能を持つグラフィックアクセラレータが必要とされ、需要が盛んになるにつれてグラフィックアクセラレーターの飛躍的な進歩が始まった。それを用いて、DOS上でプログラムを組んで直接操作することによってより高速な動作を引き出そうとした。CPU側の処理能力は充分なものとなり、多少の煩雑な処理は高速スクロールにおいて人間の持つ動体視力を上回ることにおいて問題とならなくなった。グラフィックアクセラレーターに含まれる多彩な機能の内、主にBitBltとハードウェアスクロール機能が用いられた。例えば重ね合わせとスクロールをグラフィックアクセラレーターによって高速に行う機能が追加され、結果、スクロール速度においてPC-9801よりも高速なスクロールを実現したケースも生まれた。(実はPC-9801も同一型番の二つのグラフィックアクセラレーターを搭載していた。一つはグラフィック用、もう一つはコンソール画面用であった。性能的にはコンソール用としての用途として成功を収めた石であり、それがPC-9801の高速テキストVRAMの操作を可能にしていた。しかし技術の進歩は複雑化していくパソコンの処理の中で生じていくオーバーヘッドの壁すらも突き破ってPC-9801の性能を上回る結果を実現した。いわば有志諸氏のプログラミング技術の勝利とも言えるのではないだろうか)だが、Windowsの普及に伴ってグラフィックアクセラレーターの開発競争が生じ、多数のグラフィックアクセラレータが各メーカーから発売されることとなった。結果、各メーカーの参入と撤退が激しくなった。各メーカーのグラフィックアクセラレーターの操作プログラミング技法においては、一定のガイドラインが定められていて互換性が保たれている部分はあった。しかし、そのグラフィックアクセラレーターの性能を極限まで活用しようとすると、グラフイックアクセラレーターの詳細な内部にまで踏み込んでプログラミングする必要があった。その領域では相互にほとんど互換性が無く、一つ一つのグラフィックアクセラレーターに対する個別対応が必要だった。加えて、グラフィックアクセラレーターの大規模化と高機能化が進み、直接DOSからプログラムにて操作するその手間は時間を追ってきわめて大変な労力となっていった。加えて時代はDOSからWindowsへと移行していき、必然的に需要の急速な減少が現れて、DOS/Vは下火になっていった。上記の他、当初はコンパック版や、AX規格のキーボードやJEGAボードに対するドライバが追加されたソニー版のDOS/Vもあった。またPS/55専用の「IBM DOS J5.0」(「/V」が付かない、通称JDOS)も、5.0以降ではDOS/Vモジュールを含み切り替えて使う事ができたが、インストールはPS/55専用の「日本語ディスプレイアダプタ」を必要とした。DOS/V登場時には、本国のIBMとマイクロソフトは関係が悪化していたが、日本IBMはIBM版の日本語Windowsへの積極的な対応など本国とは違う独自の動きを行っており、DOS/Vを実現するドライバをマイクロソフトに供給し、マイクロソフト版のベースとなった。しかしIBM版に対してマイクロソフト版日英の言語切り替え機能(切り替えコマンドの構文)に関して互換性がなく、問題視もされた。PC DOS 2000は、いわゆる2000年問題の対応版だが、これがMS-DOSおよびPC DOS全体の最終版となり、2002年にはサポートも終了した。各バージョン間の相違は"MS-DOS"を参照。1983年より日本を含むアジア・太平洋地域の製品開発の管轄は日本IBM(APTO)にあったため、マルチステーション5550を始めOS/2やDOS/Vも台湾、韓国、中国の各地域向けバージョンが作成された。IBMの資料より各国向けのDOS/Vは以下の製品が確認できる。注釈出典
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。