高雄(たかお/たかを)は、日本海軍の重巡洋艦。一等巡洋艦高雄型の1番艦である。高雄 (軍艦)の艦名は日本の軍艦に幾度か採用されており、江戸時代の秋田藩所有蒸気船高雄丸(第二回天丸)、イギリス建造運輸艦高雄丸、国産初の巡洋艦高雄、天城型巡洋戦艦3番艦高雄がある。京都府の高雄山に因む。高雄および高雄型2番艦愛宕は、ワシントン海軍軍縮条約によって建造中止となった天城型巡洋戦艦3番艦高雄、同型4番艦愛宕の艦名を受け継いでいる。高雄の艦内神社は京都護王神社。1927年(昭和2年)4月16日、横須賀海軍工廠のガントリー船台において、妙高型重巡洋艦1番艦妙高の進水式が昭和天皇行幸下で行われた。4月28日、高雄は妙高と同一船台で起工された。同年6月23日、正式に『高雄』の艦名が与えられた。1930年(昭和5年)5月12日、進水。進水式には香淳皇后が臨席。式典の模様はラジオで実況された。1932年(昭和7年)5月31日、竣工。高雄型2番艦の愛宕は、高雄と同日附の起工(1927年4月28日)、同日附の命名、進水はやや遅れ(1930年6月16日)、竣工は高雄より2ヶ月早かった(1932年3月30日)。就役後の新鋭重巡2隻(高雄、愛宕)は第二艦隊・第四戦隊に所属する。1932年(昭和7年)12月1日、高角砲指揮官として高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮、海軍大尉)が着任する。1933年(昭和8年)5月25日、秩父宮雍仁親王以下が各艦(長門、赤城、高雄、暁、潜水艦1隻)を視察する。8月25日、横浜沖で行われた特別大演習での観艦式に第四戦隊(高雄、愛宕、鳥海、摩耶)は昭和天皇が乗艦する戦艦比叡の供奉艦(先導艦鳥海)として参列した。11月15日附で宣仁親王は扶桑型戦艦1番艦扶桑の分隊長に補され、高雄より退艦した。1934年(昭和9年)6月29日、第二艦隊司令長官高橋三吉中将(旗艦鳥海)麾下の第四戦隊(鳥海、摩耶、高雄、愛宕)は連合艦隊(司令長官末次信正中将)指揮下でおこなわれた演習に参加。第二水雷戦隊(旗艦那珂)に所属していた駆逐艦2隻(電、深雪)の衝突と深雪の沈没に遭遇した。1937年の日中戦争開始後には上海上陸作戦等を支援し、その後旅順から華北方面で活動する。1938年には近代化改修に入り、翌1939年に工事が完了している。1940年(昭和15年)10月11日、紀元二千六百年記念行事に伴う観艦式に重巡洋艦3隻(高雄、加古、古鷹)は御召艦比叡(昭和天皇座乗)の供奉艦として参加する。高雄は先導艦として観艦式に臨んだ。1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時の高雄艦長は朝倉豊次大佐だった。第二艦隊司令長官近藤信竹中将が直率する第四戦隊(愛宕《戦隊司令艦》、高雄、摩耶)に所属し、南方部隊本隊指揮官(第二艦隊司令長官 近藤中将:旗艦愛宕)の指揮下で南方部隊本隊(第四戦隊《愛宕、高雄、摩耶》、第三戦隊第2小隊《金剛、榛名》、第4駆逐隊《嵐、野分、舞風、萩風》、第6駆逐隊第1小隊《響、暁》、第8駆逐隊《大潮、朝潮、満潮、荒潮》)を編制していた。なお高雄型3番艦鳥海は山本五十六連合艦隊司令長官の指示により第四戦隊から引き抜かれて南遣艦隊に編入され、南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将が指揮する馬来部隊の旗艦として行動している。第四戦隊はフィリピン、ルソン島のリンガエン湾上陸作戦の支援にあたった(南方作戦)。1942年(昭和17年)初頭はジャワ海で作戦に従事した(蘭印作戦)。3月1日、高雄の水偵がオランダ商船のEngganoを爆撃。翌2日夜、四戦隊(愛宕、高雄)は米駆逐艦ピルズバリー ("USS Pillsbury, DD-227") を撃沈、3月4日に四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)と第4駆逐隊第1小隊(嵐、野分)がチラチャップ近くで船団を攻撃、タンカーFrancol、depot ship Anking、掃海艇1隻を沈め、オランダの貨物船2隻を捕獲し、護衛のオーストラリアのスループヤラも撃沈した。日本に戻った4月中旬にはドーリットル空襲に遭遇し、米機動部隊を捜索したが会敵しなかった。5月2日、重巡2隻(高雄、摩耶)はアメリカの潜水艦に撃沈された水上機母艦瑞穂の救援に赴き、乗組員を救助した。ミッドウェー作戦にむけて第四戦隊は編制を変更、第1小隊(愛宕、鳥海)、第2小隊(高雄、摩耶)となる。第2小隊(高雄、摩耶)は第四航空戦隊(龍驤、隼鷹)と共に5月末から6月にかけてアリューシャン作戦に参加したが、6月上旬のミッドウェー海戦で日本海軍は大敗した。7月14日、南東方面の作戦を担当する第八艦隊(外南洋部隊)が新編され、三川軍一海軍中将が新司令長官となる。第八艦隊の旗艦には鳥海が指定されてラバウルへ進出、第四戦隊は事実上高雄型3隻(愛宕、高雄、摩耶)に減少した。8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸してガダルカナル島の戦いがはじまると、第四戦隊もトラック泊地へ進出した。8月24日第二次ソロモン海戦、10月26日南太平洋海戦参加。11月15日第三次ソロモン海戦に参加した。1943年(昭和18年)2月、ガダルカナル島からの撤退を支援する。その後艦長は猪口敏平大佐にかわり、トラックを拠点に中部太平洋で活動した。同年11月5日、第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦愛宕)が指揮する巡洋艦部隊(愛宕、高雄、鳥海、摩耶、鈴谷、最上、筑摩、第二水雷戦隊)としてラバウルに進出。そこで米空母艦載機による攻撃を受ける(ラバウル空襲)。高雄は重油補給中に命中弾2発を受け、このうち1発が1番砲塔と2番砲塔の間に命中。たまたま一番砲塔の扉が開いており、爆風で炸薬が引火した結果、戦死者23名を出した。他に複数隻(愛宕、摩耶、最上、筑摩、阿賀野)等が損傷し、特に4隻(愛宕、高雄、摩耶、最上)は内地回航を要する被害を受けた。高雄は横須賀に戻り修理を行った。高雄の修理は1944年(昭和19年)1月19日に完了した。高雄は空母2隻(瑞鳳《旗艦》、千代田)、駆逐艦3隻(初春、若葉、玉波)と共にトラックへ向かう。航海中の2月1日、2隻(高雄、玉波)は被雷と悪天候のため艦首が切断されて航行不能となった大鷹型航空母艦2番艦雲鷹の護衛を命じられた。瑞鳳隊と分離して雲鷹隊と合流し駆逐艦複数隻(皐月、潮、曙、初霜、白雲、玉波、沖波、岸波)等と協力してアメリカの潜水艦を撃退し、雲鷹の曳航を実施する。2月7日、横須賀に帰港した。この作戦で高雄はアメリカの潜水艦1隻撃沈を報告している。2月15日、パラオに向けて出航した。その後はパラオ、リンガ泊地、タウタウイ泊地で訓練に従事する。1944年(昭和19年)6月19日、高雄はマリアナ沖海戦に参加した。前衛部隊として第一戦隊(大和、武藏)等と共に戦い、この時、甲部隊(小沢艦隊)から発進した日本軍攻撃隊を敵編隊と間違え、右舷高角砲で誤射している。この事故で数機が墜落した。24日に日本に戻り、7月20日にリンガ泊地に進出した。10月22日、高雄は栗田健男中将指揮の第一遊撃部隊に属しレイテ湾に向けてブルネイを出撃した。だが10月23日、パラワン島沖を航行中の6時34分、アメリカの潜水艦ダーター ("USS Darter, SS-227") の放った魚雷2本が高雄の右舷魚雷発射管真下と右舷後甲板に命中した。高雄の艦長は艦橋にいたが、航海長と操舵士は旗甲板で天測中のため副長が取舵回避を下令、2本を回避したが総てを避けきれなかったという。高雄は戦死者33名を出し、第三・第四罐室を破壊され、外軸スクリューも失って大破、洋上に停止した。真水タンクも破損し、海水を蒸留して水を作って罐を焚いたため、高雄が6-11ノット発揮可能になったのは21時であった。21時44分、高雄は撤退を開始。ダーターの追撃を受けたが海軍機の援護によってダーターは座礁して自沈した。10月25日17時14分、夕雲型駆逐艦2隻(長波、朝霜)、水雷艇鵯に護衛され無事ブルネイに到着した。なお、本海戦で高雄と共に被雷した姉妹艦2隻(愛宕、摩耶)が沈没し、開戦以来各地を奔走してきた第四戦隊も事実上壊滅した。鳥海は第五戦隊(妙高、羽黒)に臨時編入され、25日のサマール島沖海戦で沈没。4隻健在だった高雄型重巡は3日間で高雄1隻となってしまった。11月8日、高雄は駆逐艦清霜に護衛されてブルネイを出発し、11月8日にシンガポールに到着した。1945年(昭和20年)1月11日、B-29重爆を主砲と高角砲で迎撃し、主砲37発、高角砲481発を消費。B-29重爆1機を撃墜した。本土に戻るために修理が行われたが、シンガポール防衛のために同港残留が決定される。損傷した艦尾を切断し、応急防水措置を施した状態で投錨した。この時、出撃可能な状態に見せかけるため、艦尾を椰子の葉で覆い、迷彩も実施された。大部分の乗組員は臨時陸戦隊員となり、機銃は付近の陸上陣地に移動された。同年7月31日、シンガポールのセレター港でイアン・エドワード・フレーザー大尉率いるイギリスの小型潜水艇「XE3」と、同行した潜水隊員ジェームズ・ジョセフ・マグニスによって仕掛けられたリムペットマイン(吸着式時限機雷)が高雄の第三砲塔右舷艦底で爆発した。幅3m、長さ8mの亀裂が生じ、下部電信室に浸水があったものの、死傷者はなく損害は軽微だった。高雄工作科の乗組員が潜水調査したところ、4個のうち1つしか起爆していない爆薬が発見された。高雄の乗組員達はイギリス系か共産党系のゲリラの仕業と判断しており、豆潜水艦の工作と知ったのは戦後になってからだった。この後も、主缶と補機類(発電機など)は使用可能であり、自力での投揚錨、通信、電力供給などが可能な状態で8月15日(終戦の日)を迎えた。終戦時の高雄乗組員は817名。第十方面艦隊司令部が高雄を使用するため157名が残留し、艦長以下660名がマレー西岸バトパハに移動を命じられ、約2年間の強制労働を強いられた。降伏処理などが進められる間、重巡2隻(高雄、妙高)はシンガポールにおける人員宿泊・他艦船の修理・通信などの担任母艦(ホテルシップ)として使用された。高雄は第十方面艦隊司令部が使用した。その後、イギリス海軍に接収されたが、引渡しを受けたイギリス海軍は高雄と妙高の2隻を自沈処分とした。妙高は1946年(昭和21年)7月8日にマラッカ海峡で処分され、8月10日に除籍された。高雄の処分要領は9月25日に伝達された。10月27日にイギリス海軍によってマラッカ海峡に曳航され、艦底に爆薬を設置。10月29日夕刻、キングストン弁を開き機関室への注水を開始。午後6時30分に爆薬に点火したのち、軽巡洋艦ニューファンドランド ("HMS Newfoundland, C59") の砲撃によって午後6時38分に高雄は艦尾から沈没した。海没地点 。爆破作業員および高雄乗組員は同航した第17日東丸に移乗してシンガポールへ戻った。1947年(昭和22年)5月3日、高雄の2隻は除籍された。妙高と高雄は妙高型と高雄型のネームシップ同士であり、同一船台で建造され、同一海戦で大破しその2隻が終戦時同じ場所に居合わせ、ほぼ同じ地点で自沈処分されるという奇妙な縁を持つことになった。
出典:wikipedia
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