フランソワ・ブーシェ(François Boucher, 1703年9月29日 パリ - 1770年5月30日 パリ)は、フランスの画家、素描家、エッチング製作者。ロココを代表する画家であり、上流社会の肖像画や神話画などを描いた。多作家として知られ、生涯に1000点以上の絵画、少なくとも200点の版画、約10000点の素描を制作し、壁画装飾、タピスリーや磁器の下絵制作、舞台デザインの仕事をこなした。ブーシェのいとこの息子は新古典主義の代表的画家とジャック=ルイ・ダヴィッドである。18世紀フランスの美術愛好家ピエール゠ジャン・マリエットはブーシェの才能を高く評価し、「筆を手にして生まれた」、すなわち画家となるべく運命づけられた人間で、「我らがフランス画派にとっての大いなる名誉」であると絶賛している。ブルボン王宮の遊興費管理官ドゥニ=ピエール・パピヨン・ドゥ・ラ・フェルテ 1727-1794 の著作にみられる記述によれば、ブーシェの父は、刺繍のデザインを行っていた装飾家であり、職能組合的組織である聖ルカ・アカデミー所属の画家ニコラ・ブーシェ(1672-1743)であり、フランソワ・ブーシェはこの父から絵画術の最初の手ほどきを受けたと考えられている。この時期に制作されたと考えられる作品として、ブーシェの現存する最初期の作例《聖バルトロマイと聖アンデレ》(個人蔵)がある。その後、父の後押しを受けて画家フランソワ・ルモワーヌ の下で修業した(ルモワーヌは1736年から翌年まで「国王の筆頭画家」を務めている。)。しかしながらブーシェが18世紀フランスの美術品収集家ピエール=ジャン・マリエットに語ったところによると、ブーシェはルモワーヌから学ぶことはなかったという。さらに弟子の面倒をほとんど見ないこの師のもとに、ブーシェは長くはとどまらなかったとブーシェはマリエットに語っている。だが弟子と師との関係についてのこのような逸話が残る一方で、《レベッカとエゼキエル》(ストラスブール美術館)のような1720年代の作品の様式を見る限りでは、ルモワーヌの影響は無視できないと考える研究者もいる。ブーシェは1723年ローマ賞を受賞する。だが王立建造物局長官のダンタン侯爵の寵を得ていなかったブーシェは勅許状をえられなかったため、イタリア留学にあたって経済的な支援を受けることがでず、結果として経費自己負担で留学することを与儀なくされた。1728年4月から5月、経費節減のためにヴァン・ロー家の3人―カルル、ルイ=ミシェル、フランソワ―とともにイタリアに旅行し、ローマのフランス・アカデミー に1727年から1731年まで滞在した。1724年以来同アカデミーの院長を務めていたニコラ・ヴルーゲルス は、ブーシェがアカデミーの離れに逗留していたと伝えている。イタリアにおけるブーシェの活動内容の詳細は不明である。アカデミーの他の芸術家たちとは異なり、ブーシェはラファエロやミケランジェロの作品研究にいそしむことはなく、ルネサンス期の巨匠たちから様式上の影響を受けることもかったようである。その代りブーシェはピアッツァ・ナヴォナのモーロ噴水にあるジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作《ネプチューン》、ローマの聖アグネス・イン・アゴーネ聖堂内部のジョヴァンニ=バティスタ・ガウッリ (1639-1709、別名イル・バチッチョ)のペンデンティヴ(正方形天井四隅の曲面三角形)部分の壁画、ルカ・ジョルダーノ《ユディトの勝利》といったイタリア・バロックの巨匠たちの作品に基づく素描を制作した。これらの素描が制作された事実からは、ブーシェがモデルとなる作品を見るためにナポリ、ボローニャ、ヴェネツィアに旅したことが推測できる。パリに戻ってからの作品には、さらにジョヴァンニ=ベネデット・カスティリオーネ Giovanni Benedetto Castiglione 1609-1664 を研究した痕跡がうかがえる。一方でド・ラ・フェルテは、ブーシェはイタリアでは「フランドル派の様式」で作品を描いていたと書き残している。1731年にブーシェは王立絵画彫刻アカデミーの準会員 agrée として認められる。1734年にブーシェは《リナルドとアルミダ》(ルーヴル美術館)を提出し、正会員としてアカデミー入会を果たす。1733年にブーシェは13歳年下のマリー=ジャンヌ・ビュゾー Marie-Jeanne Buzeau 1716-1796 と結婚する(ブーシェ30歳、マリー=ジャンヌ17歳の時。爾後妻はブーシェの作品にしばしば描かれる。なお、フランスは夫婦別姓である。)。ふたりは一男次女をもうける。男子は幼くして死ぬが、娘たち―エリザベート・ヴィクトワールとマリー=エミリーのふたり―は父親の弟子たち―歴史画家ジャン=バティスト・デエ 1729-1765 とミニアチュール、グワッシュと風俗画の画家ピエール=アントワーヌ・ボードワン 1723-1769 ―と結婚する。ブーシェはルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人のために複数の作品を描いた。ルイ15世の公妾にブーシェは素描とエッチングを教えた。イタリアにいた当時の弟のヴァンディエール侯爵(のちの王立建造物局庁長官マリニー侯爵)に宛てた手紙の内容からは、ポンパドゥール夫人はブーシェが描く肖像画を気に入っていたことがわかる。彼女をモデルとした作品に関しては複数のヴァリエーションが描かれた。ブーシェはポンパドゥール夫人のために相談役としても働き、彼女の美術コレクション形成を助けた。ポンパドゥール夫人の寵の厚かったブーシェは国王ルイ15世の覚えもめでたく、1755年にゴブランのタピスリ製作所の監察官を拝命すると、翌年にはジャン=バティスト・ウードリ(パリ、1686年-ボーヴェ、1755年)の後任として同製作所の長官に就任する。このころブーシェはボーヴェやゴブランのタピスリの下絵やパリのオペラや公の祝祭で用いる装飾下絵を大量に制作する。1762年から務めていたカルル・ヴァン・ロー の後任として、ブーシェは1765年、ルイ15世の「国王の筆頭画家」 を拝命し、同年には王立絵画彫刻アカデミー院長の座に就いた。ブーシェは1770年に世を去るが、王立絵画彫刻アカデミーの会員としての年金は1200リーヴルに上っていた。ブーシェの死後、「国王の筆頭画家」はジャン=バティスト=マリー=ピエール 1714-1789 が務めた(在位:1770-1789)。ロココが新古典主義に取って代わられると、ロココ文化を否定する動きが見られた。ブーシェも晩年はその絵画だけではなく、人格も非難されるようになった。ブーシェの死から30余年後にその大作が競売されたときは、ほとんど値段がつかないほど不人気であった。19世紀の後半、ゴンクール兄弟(エドモン・ド・ゴンクール、ジュール・ド・ゴンクール)が18世紀のフランスを中心とする美術の再評価を行い、ブーシェも高い評価を与えられた一方、室内装飾家に過ぎないとも評されている。ルーヴル美術館のシュリー翼2階第46室には「ブーシェの間」があり、ブーシェの作品が数多く展示されている。Category:Paintings by Boucher in the Louvre in Wikimedia
出典:wikipedia
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